磐梯町勢要覧 -003/042page
磐梯町前夜
慧日寺
807〜平安初期には法相宗の教えを 学んだ徳一が慧日寺を開基し、 会津仏教文化の発祥の地とし て栄えました。永正8年に修 復された絹本着色恵日寺絵図 や発掘された礎石群から壮大 な伽藍を誇る規模であること が確認されましたが、衆徒頭 の乗丹坊が平氏方につき、木 曽義仲との戦いに破れたこと から会津四郡に及んだ勢力は 衰退していきます。
戦
1598〜さらに、会津領主の芦名氏が天正17 年に磨上原の合戦において、伊達政宗 に敗れ、寺に火を放たれた慧日寺は、 のちの幾度の火災により伽藍の殆どを 焼失しました。
門前町として早くから開けていた大寺 周辺は、江戸時代に入ると二本松街道 沿いの宿駅となり、人の往来も賑やか になります。幕末の戊辰戦争ではこの 街道も西軍の押し寄せるところとなり ましたが、九軒が兵火で失われたのみ でした。火山
1888
磐梯村の頃
1889〜元号が明治へと改まり、明治21年に 磐梯山が噴火、明治22年に磐梯・更 科・大谷・赤枝の4村が合併し「磐梯 村」が誕生しました。この後岩越鉄道 開通、発電所建設や非金属精錬工場の 誘致などにより、急速に農業の村から 工業開発の新しい村へと発展していき ます。そして2つの大戦を軽て工業の 隆盛と衰退、敗戦の痛手から復興する 磐梯村は昭和35年から「町」へ移行し ました。