わたしたちのきょう土 磐梯町 -098/116page
て,中国から帰ってきました。
1794年,桓武(かんむ)天皇は古い寺との結びつきをたち切って,正しい政治を行おうと,都を平安京(今の京都)に移しました。そして,新しい仏教の教えによって国の政治を進めようとしたのです。
このころの奈良のお坊さんの生き方に反発を感じた徳一でしたが,この新しい仏教の教えに対しては学問的に深い疑問を感じたのでした。
時を同じくして,都から遠くはなれた陸奥(むつ)の国の会津で,山が激しく火をふき,多くの人が噴火(ふんか)による泥流にのみこまれ,まるで地獄のようなありさまであるといううわさが入ってきました。
「苦しみ,救いを求めている人がたくさんいる。本当の仏教のカで人々の痛む心をいやしてやりたい。」
そう思った徳一は26歳のころ,徳一を尊敬している何人かの人と都をはなれました。
大切な仏教の書物を写した巻紙と三鈷杵(さんこしょ)(インドからきた仏具の−種。)と少しの食べ物を持って苦しい旅をしました。そして,何日もかかって,会津の地にたどりついたのです。