磐椅王国 -015/034page
41.紙本墨書猪苗代兼載八代集秀逸(しほんぼくしょいなわしろけんさいはちだいしゅうしゅういつ)(中小松・西浜)
猪苗代兼載は猪苗代式部輔盛実の子として、享徳元年(1452)猪苗代の小平潟に生まれ、早 くから仏の門に入って法号を興倭と呼んだ。和歌・連歌の天才に恵まれて十九才の若年で、 心敬・宗祇らの河越千句に同座している。これらを機縁として心敬に師事、宗祇に兄事し、 やがて京都に出て、連歌師として大成する。初号宗春、後兼載に改め、相園坊、耕閑軒と称 した。三十九才で連歌師として最高の北野連歌会所奉行、宗匠の栄職につき、宗祇を助けて『新 撰菟玖波集』を完成し、連歌史に不滅の金字塔を残している。文亀元年(1501)京を離れ、白 河関を経て養子兼純が岩城の人である因縁もあって、岩城大館に草庵を構え、ここを中心に 会津・岩代・下野・上野にわたり活躍した。特に文亀三年(1503)の顕天のための竹林講義や永 正ニ年(1505)の葦名祈祷百韻、同三年(1506)の『源語秘訣』 など会ラ幸滞在も見受けられる。
永正六年(1509)五十八才の秋、中風治療のため古古河に没した。五十九才、墓は古河の北、栃木 県都賀郡野木村大字野漬の満福寺にある。この八代集秀逸は兼載が永正四年く1別刀五十六才の時、 常陸国行方郡島崎の島崎武庫周隆という人に書き与えたものです。 (県指定重要文化財)
八代集秀逸
葦名兼載碑
兼載句碑
幹ノ梅
A 葦名兼載碑 B 小平潟天満宮 C 兼載句碑 D 幹ノ梅 E 忠魂碑 F 川原田先生功労碑 G 先全忠之碑 H 加和里御前の墓 猪苗代兼載の句「花ぞ散りかからんとての色香かな」新撰菟玖波集
「ちりにしも花は又さくこの世かな」国塵第一
−中 世−