磐椅王国 -016/034page

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42.摺上原古戦場(すりあげはらこせんじょう)(長田・不動他)
 会津侵略を狙う米沢城主伊達政宗は、予てより猪苗代盛國 へ内応を勧めていたが、天正十六年(1588)に入ると葦名氏 と伊達氏の争いは激化し、翌天正十七年五月四日には安積郡 の安子島城、五日には高玉城を攻め落とし、仙道と会津を結 ぶ交通の要衝を押さえました。これに対し会津黒川城主葦名 義広は五月二十七日、佐竹・岩城氏らと共に伊達勢と対峠す るため須賀川に出陣していましたが、六月四日夕刻、政実は 安子島を発し、夜更けに猪苗代へ入場しました。同日伊達方 の動きを察知した葦名義広は須頁賀川より黒川へ戻り、夜更け に猪苗代に出陣しました。

 葦名方総勢16,000騎は、摺上原の西、布藤・源橋・−ノ沢 に陣取り、葦名義広は、布藤の南高森山に本陣を置きました。 −方伊達方23,000騎は、摺上原の東に陣取り、本陣を八ケ森 に置きました。

 合戦の火ぶたは六月五日早朝、葦名方の先陣富田将監勢が 伊達方の先陣猪苗代盛國勢に攻めかかることによって切られ ました。当初将監勢は猪苗代勢を破り、更に原田・片倉勢を 突き崩し、伊達方に内応した葦名の旧臣太郎丸掃部による横 合からの鉄砲で多くの犠牲者を出しながらも孤軍奮闘して政 宗本陣へ進撃していましたが、葦名方の二陣佐瀬勢、三陣松 本勢、五陣平田勢は、兵を進めなかったばかりか軍見物の雑 人たちが伊達勢に撃ち崩されたのをみて、葦名勢の敗軍と思 い一度に崩れ退却してしまい、その際浮き足立った葦名勢は、 猪苗代盛國が日橋川の橋を引いて置いたのを知らず、多数の 兵が川に溺れて命を落としました。画して激戦の末葦名方は総崩れとなり、筆名義広は僅か な近習に守られ、黒川城に逃れました。

 その後敗戦の責めを追った葦名義広は、六月十日城を棄て常陸の佐竹家に帰り、ここに葦 名氏は滅亡し、会津の中世は幕を閉じました。
三忠碑拓本
三忠碑拓本

摺上原合戦図
摺上原合戦図

三忠碑文「三忠とは孰をか謂ふ。金上盛備・佐瀬種常・常雄を謂ふ。云はゆる疾風に勁草を知り板蕩に誠臣を識るとは三士の若きもの是也。猪苗代盛國邑を以ゐて叛き、〜三士豈徳を地下に感載せるせざらんや。抑々亦以て土氣を興起するに足らん。謹んで銘に換ふるに公の國雅を以てす。曰く、疾き風に勁き草葉を知るといふ古る言思い出づる古塚」

−中 世−


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