磐椅王国 -017/034page
43.三忠碑(さんちゅうひ)(長田・長田)
伊達政宗は宿敵葦名氏の所領会津を攻略すべく、天正十七年 (1589)旧暦六月五日、磐梯山麓の摺上原に軍を進めました。この地 の戦いに葦名義広の家臣金上盛備、佐瀬種常・常雄父子の三士は、主 君の危急を救い、討死しました。その忠誠のさまを後世に伝えるために八代会津藩主松平容敬公は、 藩の儒学者高津泰に命じて撰文し、全文437字を唐の名筆家で熱血忠 義の人物である顔真卿の書体から山内に集めさせてこれを刻ませ、 嘉永三年〈1850)十二月に建立しました。また周囲には旧二本松街道 の松並木も残されています。
44.平盛胤(たいらのもりたね)の墓(はか)(八幡・水上)
亀ケ城最後の城主十四代猪苗代盛胤は、葦名累代の宗社を覆し 父盛國が伊達政宗に内応しようとしたとき度々父を諌めましたが、 逆に罪をきせられ追い出されました。摺上原の戦いでは葦名方と して参戦しましたが、父の旗印をみて一旦退き、再び伊達の陣へ 攻め込みましたが深手を負いました。葦名家滅亡後は蒲生氏にも 仕えず、寛永十年(1641)内野村で七十七才の生涯を閉じました。 村ではその墓の荒廃を防ぐため、文化二年(1805)より年々 夫の役を免除し、守り伝えています。45.五輪塔(ごりんとう)(五輪)
猪苗代盛胤の遺徳を偲び、百目貫村の臼井平右衛門が願主とな って、明暦四年(1658)七月に建立されたものです。大小6基の五輪 塔で、一番大きいものは高さが3mもあります。以前は旧二本松街 道沿いにありましたが、国立磐梯青年の家建設の際、その入口付 近に移されました。−中 世−