磐椅王国 -018/034page

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−近 世−

46.会津藩主松平家墓所(あいづはんしゅまつだいらけぼしょ)(見袮山他)
 会津藩主の墓所は初代保科正之が土津神社に祀られ、二代以降が会津若松市東山の墓 所に葬られており、二代蓮主正経は仏式で葬られていますが、初代及び三代以降はそれ ぞれ神式です。土津神社に祀られている初代三蕃主保科正之は、徳川二代将軍秀忠の子と して慶長十六年(1611)に生まれ、高遠薄から最上藩を経て、寛永二十年(1643)会津に入 封しました。慶妾四年(1651)徳川四代将軍家綱の後見役として、幕府の実権を握り、こ のとき正之は四十一歳で、そののち亡くなるまでの二十年間幕政に携わることとなります。 正之は神道に造詣が深く、吉川惟足より土津霊神の称号を受けました。亡くなる前の年 に会津入りした正之は、磐梯山麓に家宅たちとともに訪れて、猪苗代湖が一望できる磐 椅神社近くの地に、死後その末社として葬るよう命じました。正之が寛支十二年(1672) 十二月に亡くなると、遺言どおり「土津神社」造営が開始され、二年後の延宝三年(1675)に 完成し、遷宮式が執り行われました。新装となった神社は日光東照宮にもたとえられる ほどの豪華絢爛なものであったといいます。惜しくも創建当時の社は、明治維新の会津 戦争のとき焼失してしまいました。その後会津戦争の難を逃れるため、斗南(今の青森県) に仮違宮されていた御神体は土津神社再興のため明治七年(1874)猪苗代に帰り、明治十 三年(1880)新たに杜も完成し現在にいたっています。

(国指定史跡)
男橋と神前大鳥居
男橋と神前大鳥居

奥の院(奥津城)
奥の院(奥津城)

見袮山付近の地図

「万代と祝ひ来にけり会津山高天原にすみかもとめて」保科正之
「君ここに千とせの後のすみどころ二葉の松や雲を凌がん」吉川惟足

会津藩歴代藩主 初代・保科正之−二代・保科正経−三代・松平正容−四代・松平容貞−五代・松平容頌−六代・松平容住−七代・松平容衆−八代・松平容敬−九代・松平容保

−近 世−


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