磐椅王国 -019/034page
47.保科正之公墳墓(ほしなまさゆきこうふんぼ)(見祢山)
保科正之の死に際し、葬儀大奉行に任命された家老の 友松勘十郎は、陰暦正月六日に墳墓地を選定しました。 最初に南北六十間、東西五十間を整地し、その真ん中に 南北三十間、東西三十二間の柵を作り、四方に鳥居を立て、 その中央に小屋を作り、棺を安置して三月二十六・二十 七日の両日にわたって葬儀を執り行いました。その後棺 の所に円墳を築き上げ、頂上に「土津神墳鎮石」と刻ん だ八角形の鎮石を置きました。墳墓の南には「会津中将 源君之墓」と亥りんだ竿石が置かれ、さらに南にある土津 神社のところまでの参道に玉石をしきつめ、神社の境内 には正之の事績を書いた石碑を建てました。48.土津霊神之碑(はにつれいしんのひ)(見祢山)
保科正之の履歴を刻んだ石碑で、碑文は山崎闇斎が撰文し、筆者は当時第一等の能 筆家土佐左兵衛高庸である。高さ7.3mと墓碑としては日本最大のものであり、竿石は 延宝元年(1673)中に荒取りをして、七月に引出し、翌年の二月十二日までかかって運 びこんだ。それより碑石の細工にかかり四月二十四日に作り上げた。次に四方に足 場を組み、碑文を彫り始め、約五ケ月後の九月二十二日に墨入れを終え、完成した。 碑文の文字数は1943字、文字の大きさは三寸(9cm)四方である。(町指定重要文化財)
49.田中正玄(たなかまさはる)の墓(はか)(御廟)
会津藩の家老を三十四年間、城代を五年間務め、;蕃の基 礎を固めた人である。正之公が自分の埋葬の地を見立てら れるために見祐山に来られた際、正玄の墓に来られ、「正 玄ここにいたか、自分も間もなくまいるぞよ」と言われ、 ハラハラ涙を流されたのを見て、お供の家臣一同も涙を流 し、正之公を仰ぎ見る者もいなかったという。
50.忠彦霊社(まめひこれいしゃ)(磐根・土田)
会津藩家老友松勘十郎氏興は正之の連命を奉じて墳 墓を築き、土津神社を造営したが、その神社経営の資 として土田堰を造り、土田新田村を開拓した。村人は その恩義に報いるため忠彦霊社として氏興を祀った。
51.服部安休(はっとりあんきゅう)の墓(はか)(神道山) 正之に仕え、その命を受けて神道の研究を専らにし、土津神社 初代の神官となった。因みに安休は森蘭丸の孫である。
−近 世−