磐椅王国 -023/034page
62.関脇優婆夷堂(せきわきうばいどう)(関都・上ノ山)
社伝によれば昔関都村の主関氏は久しく嗣子が無いため、夫婦で鐘寺の麓山宮に祈願 して懐妊を得たという。しかし月満ちてお産に臨んだが、陣痛が7日7晩に及んでも産 まれず悩み重ねていた所、忽然と老婆が現れ呪文を称えるとその功徳が現れ男子を安産 しました。妻女はその霊異を崇め優婆と称し、その姿を描き寝所に祀りました。このこ とが世上に広まり、参詣する人が多いため、その子藤原重卿は多留良橋の元に茅舎を建て、 婆鬼・翁鬼・地蔵の三像を妾じて尊崇したが、これも霊験あらたかで、ゥ人の行願を成 就したと伝えられています。現在の建物は大正十三年に新築されたものです。
63.麓山神社本殿厨子(はやまじんじゃほんでんずし)(千代田・村ノ内)
麓山神社は北高野集落の北東に位置し、羽山津見命を祀っ ています。神仏混淆の形態をとどめ鎌倉後其月〜室町前期の和様・ 唐様折衷の作風は猪苗代の神社仏閣中まれにみるものです。64.堀切(ほりきり)の姥神像(うばがみぞう)(三郷・下太子堂)
長瀬のおんばさまと呼ばれ、舟渡しの守護神として、また 安産の神様として信仰されています。姥堂は廃仏棄釈で橋姫 神社となり、昭和四十一年に現在地に移されました。この姥 神像は吾妻山の山岳信仰に関わりがあったものと考えられ、 長瀬川を流れてきたと伝えられていますが、作風は江戸中期 以前の作とみられ、町内の姥神としては最も古く、彫りもし っかりしています。65.麓山神社左右大臣(はやまじんじゃさゆうだいじん)(関都・権現山)
安永三年(1774)に奉納された石像で、像に刻まれた願主や施主の 名から、保科正之公が会津藩に信州高遠より入府した際、石工を伴 ってきたことを証明する資料であると共に当地方の麓山信仰の深さ を物語る貴重なものです。−近 世−