ぼくたち、わたしたちのあつしおかのう-083/100page

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め入り,戦場となって,いたるところに負傷兵や戦死者がでました。岩子は,もってうまれた正義感で,戦場をかけめぐって,敵味方の区別なく,多くの人々の助けをかりて,負傷兵の看護をしました。戊辰戦争で会津藩は降伏しましたが,岩子は敗戦後の貧しい人に食事を与えたり,家を失った人にとまる所を与えたりして,困っている人たちのために限りなく働きました。
1872年(明治5年)に,役所は会津地方のすべてに小学校をたてようがっこうましたが,岩子はそれよりも3年も前に,喜多方に小田付幼学校をつくり,読み書き習字,珠算などを教えました。また,岩月村の長福寺に,身寄りのないこどもやお年寄りを世話したり教えたりする養育所,福島の長楽寺にも同じような養育所をつくりました。
1888年(明治21年)磐梯山が大爆発しました。いくつもの村が土砂でうめつくされ,多数の死者や負傷者がでました。岩子は災難にあった人たちのために,ほうぼうからお金や物資を集め,衣食をわけたはたらり,食事を作ってやったりしました。何十日も働いて,口もきけないほどでした。それでもがんばりました。
岩子は,貧しい人たちのために,無料でなおしてもらえる「済生病院」をつくりました。医師は日本赤十字社病院から派遣してもらい,治療にあたりました。この病院では医学の勉強をしていた野口英世が薬局の仕事を,母のシカも仕事の手伝いをしていました。
岩子は,このほかにもたくさんの人のためになる仕事をしました。しんそう1897年(明治30年)4月19日に岩子は心臓の病気のために,69才でこの世を去りました。亡くなるまで,岩子は人のため,世のためにがんばりとおした人でした。自分がやらなければと思ったことは,どんなことがあっても強い信念をもってやりとおしました。
岩子のおこないをたたえて,東京浅草の浅草寺,福島市の長楽寺,

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