わたしたちのまち山都町-094/110page
3)千咲原の米づくり
千咲原では,広い畑がたくさんできたおかげで人びとの生活も少しずつよくなってきました。しかし,千咲原の人びとが一番作りたかったのは米でした。畑でたくさんの作物がとれるようになっても,米を作ることができなかったので,よその農家から米を買って食べていました。そのためにまだまだ苦しい生活が続いていました。すぐ近くには,山都町で一番大きな阿賀川が流れています。人びとは,「この川の水を千咲原の台地にくみ上げて,米づくりができないだろうか」と考え,川岸にポンプ場をつくり,水をくみ上げる設備をつくりました。思いがけない台風による水害にあったり,ひでりによって思うようにいかずに,米づくりをあきらめようとしたこともありました。しかし,みんなが米づくりをしたいという気持ちが強かったので,くじけずにはげましあいながらがんばりました。
戦争が終わってから,国や県の協力によって水田の開発が盛んに行ねがわれるようになってきました。その人びとの願いがかなって昭和39年,40年の2年間にわたって水田開発工事(開田事業)が進められました。もともと千咲原の土は,軽石まじりの砂地で水田に適していなかったねんどすいでんので,粘土がほどよくまじっていて水田に適した土を何台ものダンプカーでよその土地から運んでうめ立てられました。前の失敗の反省が十分生かされたため,昭和41年には約38ヘクタールの水田がみごとに完成し,18トンもの米を売り出すまでになりました。
しかし,この開田事業に参加したのは,千咲原の農家の半分ほどだったので,昭和42年に第2期の開田事業が進められました。その結果,約42ヘクタールの開田を完成することができ,いまの千咲原が生まれました。