高郷の地質と化石 会津化石研究グループ -054/066page

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える施設整備(しせつせいぴ)にまわすべきだ」の声もあがるなかでの郷土資料館建設は、村長さんによる大きな英断(えいだん)ともいえるものです。建設は、「請負金額(うけおいきんがく)3400万円、請負者会津坂下町入谷建設工業、工期自7月13日至12月20日」の工事請負契約で、7月26日に地鎮祭(ぢぢんさい)が行われ、具体的な第一歩がふみだされたのです。

2.郷土資料館誕生の背景にある考え方

 6年早めた郷土資料館建設工事がはじめられたのです。この資料館の展示内容をどうするか。今度は、担当者にとって頭のいたい問題になりました。村民の口にのぼった「ガラクタの収蔵庫(しゅうぞうこ)」となっては、建設の意味は半減(はんげん)する、そこで考えだされたのが、「高郷村特有のもの」をどう表現し具体化することです。担当者のイメージに、「村に残る民俗用具」と「村の歴史の証(あかし)になるもの」の二分野が浮かびました。それを「村の歴史」とからませた展示内容にどう結びつけるかで考えこんでしまったのです。こんな時に、「貴重な化石は自分らの力で地元のために残そう」という考えで、村に産出する化石の調査・研究、保護にあたっていた会津化石研究グループと担当者たちの交流が、基本構想や展示計画に大いに役立つことになりました。ここでは、会津化石研グループと担当者のふれあいのなかで、どんな考えで資料館が建設されていったのかを、いくつかあげてみます。

・地元主義をふまえて

 地元の高郷村では、かって塩坪遺跡(しおつぼいせき)(旧石器(きゅうせっき)時代の遺跡)の発掘のさいに苦(にが)い経験を味合っていました。この発掘は、1971年(昭和46年)に大学の考古学研究室や地学研究会の合同調査ですすめられ、旧石器の出土遺物もでて、考古学と地質学の学際的(がくさいてき)な調査として成功したものです。この時、協力した村当局には、発掘時における手書きの中間報告書一通だけが届けられ、出土遺物は大学に持ち運ばれ、以後の研究成果は他の発表物によって知るだけとなっていたのです。地元では、大切な文化財が、学者の手によって、中央に集められたという感情しか残りませんでした。

 また、同じような問題が期せずしておきようとしたのです。1980年(昭和55年)11月、第2次化石発掘が行われる間際(まぎわ)に、発掘をめぐって中止か続行かの問題(4編参照)がこれです。このなかには、考えさせられる問題があるのです。事実経過をまじえて話してみましょう。

 会津化石研究グループが調査にのりだすや、県文化課から、発掘ストップ命令がだされます。「県の指導だから従うしかないのでは…」と高郷村数育委員会がいいだしたうらには、『貴重な文化財は保存することが大切であり、勝手に個人的に、あるいは、グループ発掘させることはならない。それに、現在工事中で危険でもあり、立入りさせぬよう所要(しょよう)な措置(そち)をとってもらいたい。県で将来、文化財指定の方向にもっていきたい。』という文化課の指示には、61年開館


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