わたしたちの郷土 高郷村 - 082/094page
(2) 齋藤源蔵(さいとうげんぞう)
元治元(がんじがん)年(1864年)〜昭和19年(1944年)
斎藤吉五郎(さいとうきちごろう)の養子(ようし)となりました。
明治(めいじ)36年4月、源蔵が中心となって無限責任新郷信用組合(むげんせきにんしんごうしんようくみあい)をつくりました。この時、集めたお金は1口(くち)25円で、39人で58口のお金が集まりました。これは、会津(あいづ)では5番(ばん)目という早いものでした。この時、源蔵は初代(しょだい)の組合長理事(くみあいちょうりじ)となって、組合がうまくいくよう努力しました。
また、明治41年、第(だい)1回県産業組合臨時総会(けんさんざょうくみあいりんじそうかい)に出席(しゅっせき)して、県に産業組合銀行(ぎんこう)をつくることを提案(ていあん)するなど、注目(ちゅうもく)される活動をしました。明治38年には、窪倉(くぼくら)にある国有林(こくゆうりん)を払(はら)い下げてもらい、10ヘクタールの土地を開墾(かいこん)し、果樹(かじゅ)・野菜(やさい)・おかぼなどを栽培(さいばい)しました。また、10mの地下に長さ100m、幅(はば)1.5m、高さ1.8mの地下室(ちかしつ)を作り、作物(さくもつ)の種(たね)ややさいをたくわえておくための事業(じぎょう)を始(はじ)めたりしました。
また、当時ではめずらしい発動機(はつどうき)を買(か)って使うなど、新しいことをとりいれて農業をよくしようとつとめました。大正(たいしょう)5年5月には、自分が先に立って、養蚕組合(ようさんくみあい)をつくりました。また、農業についての研究家として、部落(ぶらく)の青年団(せいねんだん)にまねかれて、講演(こうえん)することも多かったということです。
80年の一生を、産業(さんざょう)の発展(はってん)のための仕事に力をつくした人でした。