わたしたちの郷土 高郷村 - 083/094page
(3) 山口市太郎(やまぐちいちたろう)
慶応(けいおう)3年(1867年)〜明治30年(1897年)
山口市太郎は江戸(えど)時代が終(お)わろうとするこんらんした時期(じき)に、峯利田(みねかがた)の山口宥次郎(ゆうじろう)の長男(ちょうなん)として生まれました。小学校は家の道向かいの阿弥陀堂(あみだどう)にかよいました。ひじょうに勉強がよくでき、その上努力家だったので、自分の教科書はたちまちあんきしてしまい、上級生の本を読むほどだったということです。小学4年生を終えた後(あと)、当時山口家にいた士族(しぞく)(もと武士(ぶし))の野村(のむら)という人について漢学(かんがく)を勉強(べんきょう)しました。
市太郎は、明治20年ころ、利田の青年会をつくり、農業や生活をよくするための指導(しどう)をしました。青年会では、自分たちの畑(はたけ)・山林(さんりん)をもち、植林(しょくりん)をさかんにするために努力しました。また、会津各地(あいづかくち)の青年会をつくるための指導をしました。
市太郎は、製紙(せいし)の研究や改良(かいりょう)にも目をむけ、製紙については、はるばる山梨県(やまなしけん)まで出かけて行って研究をしました。のちに、河沼郡製紙改良組合長(かわぬまぐんせいしかいりょうくみあいちょう)をつとめました。
市太郎は、明治25年には、「漆業全書(しつぎょうぜんしょ)といううるしの栽培(さいばい)についての本を東京で出しました。村で、個人(こじん)で本を出した人は、この人が初(はじ)めてです。この本に書いてある苗(なえ)の育て方やうるし液(えき)の取り方やろうの取り方などの方法は、今伝(つた)えられているものとまったく同じです。うるしの苗(なえ)は自分の畑と静岡県(しずおかけん)の伊豆(いず)・熱海(あたみ)の農園(のうえん)で育てて、全国各地へ売っていました。