西会津町勢要覧 -006/022page

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ばんちゃのはなし 街道の歴史

軒下

"人馬織りなす"とは このことでな、

ばんちやが娘の頃は、
自転車なんてねがったがら
人はみんな歩きで、町ん中は人力車や馬車が
しょっちゅう通ってで、
それは賑やかなもんであったわい。

◆ 塩と米が行き来した越後街道

塩と米

越後街道は、白川街道、二本松街道、米沢街道、下野街道とともに、会津五街道と呼ばれる。これらの街道は、会津藩の公用道路で、若松城下を中心に行先の名前が付けられている。なかでも越後街道は、山国の会津から海辺の越後に延びる参勤交代や特産物の行路。人も物も文化も行き交った大動脈だった。特産物と言うのは主に、会津からは大阪廻米や山の幸、越後からは塩や海産物。どちらからの流通が止まっても大きな影響が出る重要なルートだった。

◆ 束松(たばねまつ)峠と車峠と鳥居峠

越後街道の時代、ここには束松・車・鳥居の三峠があった。鎌倉幕府の執権北条時頼は「陸奥(みちのく)の 満田の山の 束松 千代の齢を 家つとにせん」と 束松の老松を歌い、またイギリスの女性探検家イサべラ・バードは明治十一年に峠の茶屋に一泊して その風光を絶賛している。鳥居峠の名は、飯豊山神社の一ノ鳥居が建っていたからと語られている。


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