わたしたちの郷土 西会津町 -102/122page

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2渡部思斎(わたなべしさい)とその門人(もんじん)たち

渡部思斎
▲渡部思斎

 今から150年ほど前,野沢(のざわ)町の中ほど(今の朱泥庵(しゅでいあん)があるところ)に研幾堂(けんきどう)と名付(なづ)けられた塾(じゅく)がありました。漢学者(かんがくしゃ)であり,漢方医(かんぽうい)でもあった渡部思斎が,その研幾堂の塾長(じゅくちょう)でした。

 渡部思斎は,1832年(天保(てんぽう)3年)に野沢原町(はらまち)村で生まれました。漢学を身につけ,1866年(慶応(けいおう)2年)のころに研幾堂という塾を開(ひら)きました。

 1867年(慶応(けいおう)3年)に,会津藩(あいづはん)から医学寮(いがくりょう)(医学を教える所(ところ))の先生になってほしいとたのまれましたが,地元(じもと)の後輩(こうはい)の指導(しどう)が大切であると考えて,この話をことわったということです。

 思斎は,また,1873年(明治(めいじ)6年)から1876年(明治9年)までの3年間,野沢小学校にもつとめました。

 思斎が開いた研幾堂には秀(すぐ)れた少年たちが学問(がくもん)を学ぶために集(あつ)まり,やがて,この中から世の中のためにつくした人がたくさん育(そだ)ちました。

  石川暎作(いしかわえいさく)もその中の1人です。

 石川暎作は,1858年(安政(あんせい)5年)市十郎(いちじゅうろう)の三男として,野沢本町(もとまち)村に生まれました。6歳(さい)のころから渡部思斎の開いた研幾堂で学び,13歳のとき,横浜(よこはま)にある高島英(たかしまえい)学校へ入学しました。暎作は,その後,慶応義塾(けいおうぎじゅく)(今の慶応大学)にはいるのですが,学費(がくひ)が続(つづ)かないため退学(たいがく)し,共立学舎(きょうりつがくしゃ)というところで,数学(すうがく)を教えながら自分の時間には英語の勉強(べんきょう)をしてカをつけたようです。


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