わたしたちの郷土 西会津町 -104/122page
やがて,共立学舎(きょうりつがくしゃ)が閉(と)じられると暎作(えいさく)作は,大蔵省(おおくらしょう)にはいり仕事(しごとう)に打(う)ちこみました。
そのころから,暎作は病気(ぴょうき)のため,からだの調子(ちょうし)がよくなかったようです。
24歳(さい)の時,イギリス人のアダム・スミスが書いた「国富論(こくふろん)」という本を,日本で初めて日本語に訳(やく)すという仕事とに取り組みました。できぱえがすぱら.しかったので,大変(たいへん)な評判(ひょうぱん)になりました。
また,渡部鼎(わたなぺかなえ)(渡部思斎(しさい)の子)たちと「婦人束髪会(ふじんそくはつかい)」をつくり,当時(とうじ),日本の女性(じょせい)がまげを結(ゆ)っていたのをやめさせるための運動(うんどう)をしたりしました。
1886年(明治(めいじ)19年)暎作は以前(いぜん)からかかっていた結核(けっかく)という病気が悪化(あっか)して,たくさんの人たちからその才能(さいのう)をおしまれながら28歳という若(わか)さでこの世(よ)を去(さ)りました。炎(ほのお)のように熱(あつ)くもえた一生でした。
渡部鼎は,渡部思斎の子として,1858年(安政(あんせい)5年)に野沢原町(のざわはらまち)村に生まれました。石川暎作たちと研幾堂(けんきどう)で学び,横浜の高島英(よこはまたかしまえい)学校へ入学しました。
その時,研幾堂から高島英学校へ