わたしたちの郷土 西会津町 -105/122page
行ったのは,渡部鼎・石川映作・五十嵐(いがらし)春甫(しゅんすけ)の3人でした。そのころ,少年たちが会津(あいづ)の地から横浜(よこはま)まで勉強(べんきょう)にでかけることは,たいへんむずかしいことでした。
鼎は,医学(いがく)の道をえらんで努カ(どりょく)しました。1886年(明治(めいじ)19年)アメリカの大学に入学し,ドクトルの学位(がくい)をもらい,サンフランシスコで開業(かいぎょう)することができました。
しかし,1889年(明治22年)父の思斎がなくなったのを機会(きかい)に帰国(きこく)し,会津若松(わかまつ)に会陽医院(かいよういいん)を開きました。
この会陽医院で,1892年(明治25年)に鼎は野口英世(のぐちひでよ)(その当時は清作(せいさく))の左手を手術(しゅじゅつ)しました。このことがきっかけとなり,英世は会陽医院に住(す)みこんで医学の勉強にはげんだのです。鼎は野口英世のその後の生き方に,大きな影響(えいきょう)を与(あた)えた人といわれていま寺。
このほかに,同じころ自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)で活躍(かつやく)した山口千代作(やまぐちちよさく)・小島忠八(こじまちゅうはち)や弁護士(べんごし)の野沢難一(のざわけいいち)も研幾堂で学んだ人たちでした。