小学校社会科学習資料 わたしたちのきょう土 会津坂下町 - 085/110page
田畑をふやすために……かんがい用水をつくった人々
栗村ぜき(新鶴村和泉新田地内(にいつるむらいずみしんでんちない))【栗村(くり)ぜき】(今の栗村ぜき頭首工(とうしゅこう)水路)
今から700年前ごろ,栗村(今の坂下の柳町(やなぎちょう)にある定林寺(じょうりんじ)付近)は,水の便(べん)が悪く,田畑や家も少ないさびしい村でした。
1331年(元弘(げんこう)元年)栗村盛満(くりむらもりみつ)という人が鶴沼(つるぬま)川から水を引き入れ,水田を開こんするためにせきを掘(ほ)り始め,子から孫(まご)へと三代引きついで,工事を完成させました。
せきができてからは新田(しんでん)の開発がさかんになり,つぎつぎと田畑が開かれて新しい村ができました。「新田(しんでん)」,「新村(しんそん)」などという地名のところはそのころ開かれた村です。
それから長い間に大洪水などによって川の流れがかわったり,せきがこわされたりしましたが,1563年(永禄(えいろく)6年)から1570年(元亀(げんき)元年)に改修(かいしゅう)されて今日にいたっています。
現在の水路は新鶴村の和泉新田(いずみしんでん)の近くの鶴沼川から水を取り入れ,若宮地区の東がわより坂下町の南側をまわり,八幡(やはた),川西地区まで流れています。水路の長さは13kmにもおよび,およそ780ヘクタールの水田をうるおしています。
【富川加水(とみかわかすい)ぜき】(今の富川頭首工水路)今から450年前ごろまで金上地区の東側(がわ)や広瀬地区の東側は,鶴沼川より高台(たかだい)になっていて,水不足に悩(なや)んでいました。そして,村も小さくなってしまいました。