小学校社会科学習資料 わたしたちのきょう土 会津坂下町 - 086/110page
1536年(天文(えんぶん)5年)東川原(ひがしがわら)の赤井六郎左衛門(あかいろくろうざえもん)は,大川の水を北会津の真渡(まわた)の東側から引き入れて,鈴渕(れいぶち),束原(つかはら),細工名(さいくな),村田を通って御池(おいけ),青津(あおつ)までおよそ12kmにおよぶ水路を計画し,青木(あおき)村の稲村利兵衛(いなむらりへい)と相談(そうだん)して領主(りょうしゅ)にねがい出ました。
ねがいを許(ゆる)されて,村人たちは喜(よろこび)び勇(いさ)んで工事に取り組み,くわで土を掘(ほ)りおこし,もっこで土をかついで運びました。この工事には,領主からのべ1万人の人夫と多くの費用(ひよう)があたえられました。
六郎左衛門は,せきの完成を目の前にしてなくなりましたが,長男の六平(ろくへい)が引きついで,ついにその年のうちにこの大事業(だいじぎょう)をなしとげました。そして,この地方がいつまでたってもゆたかに栄(さか)えることを願(ねが)って「富川(とみかわ)ぜき」と名づけました。それから,年々(ねんねん)水田が新しく開こんされて2倍以上に広がり,せきの下流(かりゅう)では水がたりなくなりました。
1829年(文政(ぶんせい)12年)には,日照(ひでり)りがつづいて田植えができないところがでてきました。そこで,村の代表の人たちが相談して,次の年に富川ぜきの下流の真渡地内の大川から田畑に水を補給(ほきゅう)するための「加水(かすい)ぜき」つくりを始め,その次の年の春に完成(かんせい)させました。この工事には15歳から60歳までの男の人はみんなでて,交代(こうたい)で昼も夜も働(はたら)きました。そして,このせきを「富川加水ぜき」と呼ぶようになりました。
今の富川ぜきの頭首工(とうしゅこう)
(北会津村蟹川(かにがわ)地内)
富川ぜきのコントローラー
(阿賀川土地改良区コントロール室)