小学校社会科学習資料 わたしたちのきょう土 会津坂下町 - 087/110page

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富川ぜきの旧水門
富川ぜきの旧(きゅう)水門
牛沢ぜき
牛沢ぜき(会津坂下町寿(す)ノ宮地内)


【牛沢(うしざわ)ぜき】(今の鶴沼(つるぬま)ぜき頭首工水路)今からおよそ330年前ごろまで若宮地区は,ちいさな堤(つつみ)のほかにはかんがい施設(しいせつ)のない,水が不足がちでくらしにくいところでした。ここの水を引くことは,若宮地区の農民(のうみん)の長年のねがいでした。

 そのような時,1624年(寛永(かんえい)元年)牛沢組郷頭佐原吉左衛門光重(ごうかしらさはらきちざえもんみつしげ)が開こんをこころざし,用水づくりを始めました。光重が病気になったあとは,むすこの光忠(みつただ)が引きつぎました。光忠は1656年(明暦(めいれき)2年)に用水路づくりを決意(けつい)し,代官所(だいかんじょ)へ援助(えんじょ)をねがいでました。ところが,この計画があまりにも大きいため援助はみとめられず,光忠は自分の財産(ざいさん)を投げだして人夫(にんぷ)350人をやとい,工事を始めました。

 1658年(明暦4年)にようやく会津藩(はん)より人夫1万人をあたえられ,ついにこの年4月中旬(ちゅうじゅん)に完成しました。この用水の通り道にあたる村の中には,この用水路づくりに反対(はんたい)する人もあり,その中には命をうばわれてしまった人が3人いました。このようにして,父光重がとりかかってから30年後にこの牛沢ぜきは完成したのです。

 現在(げんざい)の水路は会津高田町の境野新田(さかいのしんでん)の鶴沼川より水を取り入れ,新鶴(にいつる)村,若宮地区の東がわから北をまわり,蛭川(ひるがわ)まで流れています。


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