わたしたちのきょう土 会津高田町-096/109page
この堰は,川の流れが直線で急なため,洪水のたびに流され,たいへんやっかいな堰でした。土地を,治める人(地頭)は,人々の苦労をあわれんで毎年堰揚げ(河川をせき止めて水のとり入れを始めること)のたびに,経費の一部にと青銅三貫目を100年間もつづけてくれました。そのため,この堰は「三貫堰」とよばれるようになったのです。
▲三貫堰
新堀堰
むかし,会津高田町では宮川の水を使って田を耕していました。しかし水の量が少なく,とくに宮川の西側の田に水を流すことがむずかしかったのです。それで,1770年,藤川の領家の南にある稲岡堤を水源地とし,水のかれた宮川を横断させて上町に流し,用水としたり,かんがい用水としました。
工事は,年寄りから若い人まで5〜6000人の人夫の手でくわやもっこを使ったり,むしろを張って水がもらないようにくふうし,三日三晩かかりました。
いまでは,稲岡堤の水は使わなくなりました。そして,直せつ宮川からとりいれられるようになり堤の働きをしています。
▲そのころの工事のようす
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