時空抒情 新鶴村村制施行100周年記念誌 -052/057page

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ヤマツツジ
ヤマツツジ

沼に魚貝を求めて生活の糧(かて)とした。また住居 は竪穴式住居といい円形で径三米より大きい ものは五米位で円内を一尺より二尺位掘下げ 地盤に柱穴を掘立て萱や草で屋根を作り一家 族が住んでいた。この館が沢には円形の住居 跡が二十六カ所が現在でもよくわかるのが非 常に珍しいが、未発掘のためこの時代につい ては何時頃のものか詳でない」
 素人目には草木におおわれた窪地が点在し ているとしか見えないのが残念であったが、 ここに、確かに新鶴村の先住民が生活してい たのだ。この沢沿いに丘陵地になっているの は、中世の頃、この地方を支配した赤井丹波 守の住居があった館山である。
 佐賀瀬川にある黒岩山興隆寺は、弘仁元年 (八一〇)に弘法大師が創建したと伝えられる 古刹。弘法大師伝説は全国各地にあって信憑(しんぴょう) 性に欠けるが、いずれこの頃に佐賀瀬川村に も仏教文化が入ってきただろうと推測できる、 とのことであった。

安住の地、長尾原

 さて、いよいよ出発点の佐賀瀬川部落に戻 ってきた。ここからが冒頭で触れた複合扇状 地が始まる。新鶴村のあらゆる文化、生活の 発祥地のことである。『村誌』にも「佐賀瀬川は 川筋は現在の位置で永く固定されている。恐 らくこの固定位置奔流の時代が扇状地面を人 々が開拓し、村造りを始めた年代と思われる」 とある。最近、青森県の三内丸山遺跡にも見 られるように、狩猟採集の移動する民と思わ れていた縄文人が、すでに作物を栽培し、分 業して集落に定着していたとなれば、この「村 造り」の定義付けが問題なのだが、少なくとも この肥沃な扇状地が安住の地であったことは、 時を経ながらも中心的文化が同じ場所に築き あげられていたことで分かる。
 唐澤さんの収集した石鏃(せきぞく)・石斧(せきふ)・石匙(せっび)類の ほとんどは、佐賀瀬川部落付近から長尾原一 帯にかけて出土したものであり、その上に古 墳時代の文化が築かれていく。唐澤さんの父 親倉次さんが自分のリンゴ畑から掘りあてた のは、長尾原古墳群の一つ、大壇と称する円墳 で、中から立派な石廓と直刀一振り、そして 人骨が出土した。その他、根岸と米沢の境で ある米沢堤一帯は、根岸四八壇古墳群といわ れる古墳の密集地帯であり、比較的良好な形 態が保たれているのが吹上公園の円墳である。
 古墳はまだある。千歳桜の直上の尾根に米 沢五つ壇古墳群が、逆瀬川部落の跡といわれ、 俗に土佐屋敷といわれる所には佐賀瀬川古墳 群が、また、新扇状地の末端と鶴沼川による 東部氾濫原の交わる阿久津・新屋敷・沢田に 続く台地にも古墳が並んでいる。
 これらには出土品がなければ自然の堆積層

館が沢の竪穴住居跡
館が沢の竪穴住居跡

吹上公園の円墳
吹上公園の円墳

古墳の密集地帯にある米沢堤
古墳の密集地帯にある米沢堤

佐賀瀬川横穴古墳(村重要文化財指定)
佐賀瀬川横穴古墳(村重要文化財指定)


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