時空抒情 新鶴村村制施行100周年記念誌 -053/057page

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常福院薬師堂
延久8年(1197)の開山で、かつては 医王山薬師寺と称した常福院薬師堂 (国重要文化財指定)

と区別がつきにくいものもあ るのだが、村重要文化財指定 の佐賀瀬川横穴古墳群は一目 瞭然である。昭和三一年(一九 五六)七月一五日、一六日と襲 った台風9号は豪雨をもたら し、新鶴村も大水害となった (本誌二〇頁参照)。この時に 盆地西部の山地には多数の山 崩れが発生したのだが、向山 の山壁も表土崩壊し、合計九 基の横穴が現われた。この古 墳群は七世紀末頃の古墳時代 末から奈良時代にかけてのも ので、環頭の直刀一振りと鉄 斧一個、人骨が一基から四、 五体分ほど出土し、古墳が単 に首長だけではなく、家族等が追葬されたこ とがうかがわれるという。
 これら移(おびただ)しい数の古墳群は何を語るのか。 『村誌』には新鶴村の古墳時代の意味について、 「佐賀瀬川扇状地の水田開拓時代、豪族による 各部落の統制、新移入宗教である仏教の普及 と古墳構築の文化発達の黎明期に相当し、こ れが扇状地末端まで及んでいたことを知るの である」としている。
 黎明はやがて着実に新鶴文化として開花し ていく。新鶴村最古の建造物として国重要文 化財指定を受け、扇状地末端の新屋敷にその 重厚な姿で鎮座している常福院薬師堂(田子 薬師堂)を見ると、確かに、新鶴村の文化の精 華がここに極まったかのような感を覚えた。
 長い佐賀瀬川紀行も終わりに近づいた。高 かった陽も黄金色の斜陽に変わり、唐澤さん の表情にも幾分か疲労がにじんだ。それでも 最後に、もっとも好きな場所という衣ガ崎に 行き、収集整理した石器の箱を持って記念撮 影に応じてもらった。この地は弘法大師の殺 生禁断祈願の伝承もある景勝地で、長尾原を 迂回する佐賀瀬川の突端にあたる。背後には 夕陽を映す水張り田──唐澤さんの顔に、新 鶴人の確固たる誇りが浮かんだ。

佐賀瀬川の美田を背景に衣ガ崎に立つ唐澤正義さん
佐賀瀬川の美田を背景に衣ガ崎に立つ唐澤正義さん


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