会津盆地西部地区の農業 - 070/100page
うつろ堰(ぜき)(会津本郷町)
慶長2年(1597年),柳久保(やなぎくぼ)村(今の柳西(りゅうさい))に住む高橋徳元(とくげん)は,水の便が悪いこの地区へ阿賀川の水を引く事業を私財(しざい)をなげうって始めました。28年間にもおよぶこんなんな工事の結果,水路の長さ4キロメートルの「うつろ堰」を完成させました。村人たちは,その苦労に感謝(かんしゃ)して,柳西の山ぎわにお堂と墓碑(ぼひ)を建てました。現在ではまったく使われなくなり,わずかに跡(あと)だけが残っています。
▲うつろ堰の碑 栗村堰(くりむらぜき)(新鶴村)
元弘元年(1331年)に,栗村(今の坂下町柳町)に住む栗村盛満(もりみつ)が,水田を開(かい)こんするために,旧宮川(鶴沼川)から水を引き入れる工事を始めました。工事は子から孫(まご)へと三代に引き継がれたのです。堰の完成とともに次々と田んぼや畑が開かれ,新しい村が,いくつもできました。現在は,新鶴村の和泉新田(いずみしんでん)の近くの旧宮川(鶴沼川)から水を引き入れ,坂下町の八幡,川西地区まで水路がのびています。