会津盆地西部地区の農業 - 071/100page
(3)新堀(しんぼり)堰を開く(会津高田町)
明和6年(1769年)は,これまでにないひどい干ばつの年でした。会津高田町では川の水がかれ,井戸(いど)や清水(しみず)も水が出なくなり,飲む水にさえ困るほどでした。宮川に造られていた高田堰や新堰にも水がなくなり,用水が引けなくなった田んぼでは,土が乾燥(かんそう)して割れ,いねはかれてしまうものが多く,大凶作(だいきょうさく)になりました。
「お米がとれなくては,私たちは死んでしまう。新しい堀を造って田んぼに水を引かなくては。」と,高田の組郷頭たちは,これまで使っていた宮川とは別に,新たな水源(すいげん)をもとめました。そして,藤川地区にある「稲岡堤((いなおかつつみ)」を買い取り,そこから高田まで水を引く「新堀」の工事に取りかかりました。
工事は,若い人はもちろんお年寄りまで何千人もの村人が,くわやもっこを使い三日三晩をかけて行いました。新堀堰のおかげで水不足の心配がなくなり,お米がたくさんとれるようになりました。今でも,新堀は一部が大切なかんがい用水として使われています。
▲そのころの工事の様子
▲新しい新堀堰