新鶴村 地名の由来 -002/079page

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大字 新屋敷(しんやしき)

 新屋敷の名称は,昔中島という村が東北にあって,今の台地に移ったからである。中島という字は新屋敷より和泉新田へ行く,むしろ和泉新田に近い村端れに残っている。中島という地名から,大川・鶴沼川が縦横に盆地底を氾濫していた時代に,その中島の州に相当した,やや高い土地であったかと推定される。現在も本郷から真渡あたりまでの大川の幅の最も広がる辺に,高い中州がいくつかあるし,北会津村の川南・荒井・舘ノ内辺の村は大体そのような中州の洪水を避け得る高所に占居している。何時(いつ)かの大洪水に,この中島まで水がついて流失し,その機会に佐賀瀬川扇状地の台地末端に登って,現在の新屋敷となったと考えるのが,地形から判断される村の起源である。

 大字新屋敷は,新屋敷甲・新屋敷新田乙の二集落をもって新屋敷と云う。   (奥州会津新鶴村誌)
 

  坂ノ下(さかのした)
 828〜924番地まで
 県道会津坂下〜会津高田線の西側
 山内俊二氏南の一角

  柳 臺(やなぎだい)
 925〜1027・441〜468番地まで,昔大きな柳の木がありこれに因んで名付けられた。山口石雄氏の付近。

  下舘下(しもたてした)
 627〜741番地まで旧役場の南

  中検断(なかけんだん)
 742〜827番地まで,旧役場の南側県道会津坂下〜会津高田線の東側阿久津境まで
 中検断・検断と連なり太閤検地(天正18年・1590)以来この地に付けられた名称であり,大正の耕地整理以後現在も続いている名称である。
 昭和58年以降圃場整備がすすめられ,昔の面影や形など無く変化して来た土地である。

  村 東(むらひがし)
 1〜37番地まで

  山王塚(さんおうづか)
 38〜143番地まで,昔神社があった,日枝神社の北東。
遺跡 田子畑遺跡 縄文・古墳〜平安塚三墓を含み,田子薬師北に接す。

常福院薬師堂
常福院薬師堂
 

  沼 田(ぬまた)
 144〜157番地まで
北中島の手前


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