新鶴村 地名の由来 -003/079page
堂ノ下(どうのした)
田子薬師・日枝神社・柳台に至る間にて,大昔は度々の洪水に見舞われ,舟等の上り下りの起点となり,南側墓の上には一本の松の大木があり舟繋ぎ等にされたとのいい伝えがある。五百苅(ごひゃくがり)
1430〜1473番地まで反当り,稲500束たばねられた。
武藤吉義氏裏の西の方。臺 畑(だいはた)
1761〜1810番地まで東十二神(ひがしじゅにしん)
1812〜1975番地まで
稲荷宮の南側の地につながり,江戸期に一里塚を建て稲荷宮を祀った。
十二神と云う神社があり,この名が付けられたといい伝えられる。佐藤益太郎氏の辺。稲荷宮(いなりみや)
1977〜2008番地まで,旧役場の辺。
昔稲荷神社があったので名付けられた。
明治・大正・昭和と政治の中心地,役場庁舎等公共施設がたてられ昭和中期迄は非常に栄えた所。作 田(さくだ)
狐 塚(きつねづか)
日枝神社高台の墓の地点を云う。昔坂下〜高田に通ずる道路があり,幕末から明治期まで,食物等を背に通る人達が数多くきつねに化かされた頃の名が残された。澤道西(さわみちにし)
1571〜1760番地まで現在の学校通り周辺。上深田・下深田(かみふかだしもふかだ)
1474〜1570番地まで
JR只見線(旧国鉄)線路西側。下沢田(しもさわだ)
田子薬師堂の北側。下馬道(しもうまみち)
新屋敷新田との中間地。念仏田(ねんぷつでん)
3938番地まで,(小林時雄氏〜墓場まで)
昔念仏を唱えながら墓場に行ったところからこの名が付けられた。