新鶴村 地名の由来 -005/079page

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間の水田・堀。
 主に村東地区に流れる。
遺跡 宮前塚 時期不明

  神田分(かんだぶん) (現 一部家ノ前)
 昔神田新田分として,鶴沼川と舘川の中間に在り,洪水の度ごとに川の流れが西方に変えられ,現在は南新田の南東に多くある。

  杢川原(もくがわら)1〜53番地 (現 宮前)
 村東の住民の所有地が多い。田・畑

  村 北(むらきた)1〜44番地
 江戸時代初期肝煎が居った。北向の住民の所有地が多い。

  法師坊(ほうしぼう)

  村 東(むらひがし)1〜117番地 (現 村東)
 南新田集落東方より北新田集落東につながり,赤沢川両川端の土地で,鶴沼川との合流地点までの土地。
 昔谷地等が多く耕地整理や個人で改良した。

  家ノ後(いえのあと)1〜117番地 (現 家ノ後)
 江戸時代より南新田北の一部で,前川原・台川原に至る中間の土地。

  北 向(きたむかい)1〜47番地 (現 北向)
 江戸時代初期(元和九癸亥年・1623)新田開発に当り肝煎が住居を構えて一つの集落となり現在に至る。
 集落中央を東西に道路がひらけ,「柳津若松に至る」と刻まれた石碑がのこっている。子安観音堂を中心として集落が栄えたことが偲ばれる。
 

 ◎新田開発願・許状 (山口佐幸家所蔵文書)
蒲生宰相公御代御知行百弍拾万石也
元蕎麦目村之長山内平右衛門兄弟有り。次に四郎右衛門其次左衛門と言。然る二四郎右衛門新田場二願開発致候處,七ヵ郷之給人之村方より悉相障申候故江戸表江両度登り願上候得ば,其節板判形被下置候。是ハ和泉新田・山内四郎右衛門二恭く納置候。
     定
一大沼郡和泉村・宮下村・新屋敷村・鷺林村・宮袋村・上海津村・上金沢村・宿相建候。御代官給人構無是者望次第罷出開作可仕候,御年貢之儀三ヶ年 作取二被成下候,御役儀ハ末代被成御用捨者也
                  稲田数馬之助 花押
元和九閏八月二十八日    福西吉左衛門 花押
                  外池  信濃   花押
四郎右衛門是より七ヶ村之川原江罷出開発致候 四郎右衛門之所を和泉新田村と号し,弟左衛門の開所を新屋敷新田村と号す。


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