新鶴村 地名の由来 -006/079page
其外五ヶ村江ハ近き者を遺し開発 為致候。………以下略……
西反田(にしそりだ)・1〜70番地
中反田(なかそりだ)・1〜99番地 乙
東反田(ひがしそりだ)・1〜56番地 (現 反田)
大正8年の耕地整理後全部合わせ,一括して「反田」の地名となり伝わっている。家ノ西(いえのにし)・1〜38番地 (現 家ノ西) 乙
南向の西方に位置し反田・西川原等と隣接し,赤沢川の西側の地。嘉工門の西方・現反田・西川原・三百苅の境付近で,大正期嘉工門の沼・池があった所。南 向(みなみむかい)・1〜41番地 (現 南向) 乙
北中島(きたなかじま) 甲
296〜440番地まで
昔田子薬師堂のあった所で,長雨や大雨で河川が増水氾濫し,流失の虞れが度々あって現在地に移された。下畑田(しもはたけだ) 甲
469〜511番地まで
北中島の南綿 子(わたこ)
窪(くぽ) 1〜57番地
集落西に位置し,古代・江戸時代より窪地が多々存在したため,耕地整理時より地名が消され,「馬寄」の名が付されたが現在は呼ばれていない。葭 前(よしまえ) 1〜84番地
昔使われたと思われる地名で,大正8年の耕地整理後名のみ残っていたが,現在は知る人ぞなし。中ノ割(なかのわり) 1〜58番地
前後の土地の中程の土地。臺川原(だいかわはら) 1〜60番地 (現 家ノ後) 乙
集落の中,村道端に位置し範囲は少なく大正以後は殆ど,反田・家ノ後・前川原と合わされ現在に至る。
昔,川原を埋立耕地に改良した水田地帯。東川原(ひがしかわはら) 1〜119番地 (現 東川原) 乙
北向集落の東,鶴沼川に合流する地点で,赤沢川の下流辺の耕地。大正期の耕地整理で普通田に改良された。手取渕(てどりぷち) 1〜107番地 (現 家ノ後) 乙
北向集落の東の位置で,東川原に至る間南向,北東に位置し,昔魚取り,狩人達の休み場所であった。
現在僅かの人のみ知っている。