新鶴村 地名の由来 -007/079page
前川原(まえかわはら) 1〜76番地 (現 家ノ後)
現在第一通信工業(株)駐車場深 川(ふかがわ) 1〜97番地
古 墓(ふるはか) 1〜135番地 (現 三百苅)
昔より古墓の呼び名が付され,大正期の耕地整理前までの地名で,それ以後は三百苅と名付けられた。西川原(にしかわら) 1〜91番地
上西川原(かみにしかわはら) 1〜132番地 (現 西川原)
大正期第一次耕地整理後統一されて西川原となる。
昔は大小河川が流れ,度々洪水等に見舞われ,其の都度舟等を使用して他村との交流を果たした程,多くの川原があったので名付けられた。赤沢向(あかさわむかい) 1〜54番地
昔赤沢川が流れその西側堤防外の一部の土地を赤沢向として昔の人達の間で受け継がれて来たが,大正期耕地整理後は使われず,知る人は僅少である。沢ノ目(さわのめ) 1〜87番地
堰に行く途中の一部の地名で,明治時代の人達が堰揚げが終わり,水が通水するまでの間蟹取りなどしていた土地の名で,現在は使われていない。三百苅(さんびゃくがり) 1〜78番地
家ノ前(いえのまえ) 1〜30番地 (現 家ノ前)
南新田集落南の地点で,昔は桑畑が多く,「宮ノ下」集落と所有権をめぐって享和(1801〜1804)の頃騒動等起きている。明治期になり買収等により南新田所有となる。
昭和38年水田に改良したが,現在は畑地が多い。上川原(かみかわら) 1〜211番地 (現 一部反田)
赤沢川の流れに添った中間地帯で,反田・西川原に連なる。川原に着土して改良した開田で,大正期・昭和初期の馬耕の節などは石川原で苦労した所である。家ノ東(いえのひがし) 1〜38番地 (現 家ノ東)
鶴沼川と集落との中間水田地帯で,昔は葦・谷地等であったが水田に改良された土地。畑ヶ田(はたけだ) 1〜6番地 (現 畑田)
新屋敷境より北新田西北部和泉新田に通ずる途中の田園で,昭和初期頃までは湿地が多く,暗渠排水や昭和31年の水害で逆に上水田に変わった。昔は度々水害に見舞われた水害地。馬 寄(うまよせ) (現 一部反田)
新屋敷,下舘下より反田,北向に至る中間地点で,北新田の