新鶴村 地名の由来 -008/079page
馬頭観音塔・踊り場・つくらい場等あり,大正期には非常に栄えた村の遊び場であった場所。
大正8年以降耕地整理で耕地となった水田地帯。七人川原(しちにんかわら) (現 宮前)
油田より南向・村東に至る宮前付近を七人川原と呼んでいる。
藩制時代南新田の住人7人で開拓した土地で,今もその名前が残され七人川原と名付けられて呼ばれている。往古は堰が揚がれば川水がなくなり,蟹を取り煮れば「赤カニ」となり食用に珍重された。嘉右衛門前(かえもんまえ) (現 南向)
寛文年間より安永年間の新屋敷新田集落創草期より南向の南西角に,嘉右衛門初代より居住せし宅地の前方,新しい墓地までの間の一角の土地。村人はじめ隣村「宮の下」集落の人々が今でも呼んでいる地名。太兵衛川原(たへいがわら) (現一部三百苅)
昔太兵衛と云う人あり,何時しかその者の名前で呼ばれるようになった地名で,水田に用水を引く堰等も一緒に残された。車 屋(くるまや) (現三百苅)
三百苅と太兵衛川原に至る間で,坂内栄一氏・山内祐馬氏の祖先達が,村人達が利用する様に,精米する水車小屋を建てたと云い伝えれた水車小屋があったので,その付近を呼ぶ名称として残された。沼 向(ぬまむかい)
昔新屋敷新田地区は,河川・沼・湿地が非常に多くあり,この地は用水堰を造り利用するまでの名称であった。堀 込(ほりごめ)
赤沢川上流の鶴沼川と佐賀瀬川の合流地点前後に付けられた名称で,現在は知る人は居ない。大正期耕地整理帳簿に書き記されている。サライ(現 三百苅)
油田と三百苅の間の地点で大正期耕地整理以後は三百苅と名付けられたが,以前はサライ堰と呼ばれた小堰がありその堰から名付けられた。