新鶴村 地名の由来 -009/079page
大字 和田目(わだめ)
和泉新田・澤田・蕎麦ノ目の3集落をもって一行政区となっている。
明治維新前は,和泉新田・澤田・蕎麦ノ目はそれぞれの村として村方三役が置かれ,大沼郡中荒井組に属していた。
明治8年8月従来大沼郡161ケ村の内94村を併合して37ケ村として大沼郡104ケ村に改められた。それまでは,戸長・区長が置かれていたが,この併合により和泉新田・澤田・蕎麦ノ目の3ケ村が併合され和田目村が誕生,和は和泉新田の和,田は澤田の田,目は蕎麦ノ目の目をとって和田目と名付けられたのではなかろうか,和田目の名の由来不詳。
和泉新田(いずみしんでん) (和田目甲)
佐賀瀬川扇状地を離れて,鶴沼川沿岸の氾濫原を開拓した村には上は境野新田・桧目新田・新屋敷新田・和泉新田とあり,開村は最も新しい。和泉新田は現在の北会津村・旧荒井村に属する和泉村の地先であった。
和泉新田の旧肝煎山内貞一氏宅には開村以来の系図書も残っていて,開村事情もよくわかる。先祖は山内又七郎といって,多分御蔵入の山ノ内家の一族で,会津金山谷の里の辺に数代居住したことになっている。天正の頃伊達政宗の会津侵入があって,この頃又七郎父子は大沼郡佐賀瀬川の山入に忍びかくれて居り,父は戦死又七郎はこの悲運な時,父とは別れ,息子をつれて漂白の身となり,蕎麦ノ目村の朋輩の舘を頼って迷い入,その後民業を勤めて,やがてその里の長となり名を平左衛門と改めた。四人の男の子があり,嫡子は又七郎の家を継いだが,困窮して遂に死亡し,次男の四郎衛門が出て,和泉村の地先を開墾して現在の和泉新田村の祖となった。略 (奥州会津新鶴村誌)
砂 取(すなとり)
旧鶴沼川畔に近くてよく言われるヨナが大量に出て,里芋・長芋や葱の堀物や貯蔵用としての砂が大量に取れたことから名付けられたと云われている。高 場(たかば)
低地だった地内でも高い方に位置していたのでその名がある。七百苅(ななひゃくがり)
集落の北の方で,栗村堰用水堀の北にあって掛樋を使用して用水を賄っていた。集落でも下等の田だったが足場が良かったらしい。名の由来不詳。宮ノ前(みやのまえ)
鎮守伊勢神社の周囲であることから名付けられたと云われている。千 苅(せんがり)
集落の東に位置して湿地が多く,萱・葭が多く生えた場所で,一部には足場の良い場所もあった。名の由来不明。