新鶴村 地名の由来 -011/079page
杉 免(すぎめん)
沢田稲荷神社東側と北側。
「澤田兵庫」屋敷跡。豪族の古墳。稲荷神社社地。谷地田(やちだ)
集落の前方南側,昔は湿地であったのか,名の由来不明。田子畑(たごぱた)
田子薬師堂の北側で以前は畑地であったので「田子畑」と名付けられたのであろう。上 代(うわだい)
「澤田」集落の西南の方で,牛川堀を挟んで西側を上代,東側を田子畑と呼ぶ。弁財天(べんざいてん)
集落の西側に位置し蕎麦ノ目との境界地,昔弁財天を祭った祠があったので名付けられたと云い伝えられている。遠 西(とおにし)
和泉新田との境界地,和泉新田から見れば遠くの西側に位置していたので,この地名がついたと云われている。橋 本(はしもと)
現在の「小沢田」(二軒)付近は橋本と呼ばれていた。山台道(やまだいみち)
「澤田」集落北側やや西よりの街道で現在の県道会津坂下,会津高田線が開通する以前の坂下〜高田間の往還の道で重要な街道であった。現在の田子薬師堂より牛川堀にそって集落南300米位の所に「物見壇」がありその所を通り,集落に入りやや西に100米程行き,其の地点より「山台道」に結び坂下方面に往来していたと云われている。● 塚 物見壇遺跡 奈良時期 平成2年発掘
「田子畑」に所在する遺跡である。「新編会津風土記巻之七十六・陸奥国大沼郡之五・澤田村の項に古蹟物見壇村南二町五十間餘にあり,小高き所なり。由来詳ならず,近頃この所より瓶一箇,大小刀十餘口を掘り出す瓶中に短刀一口ありしと云」と記載されている所から古墳・あるいは経塚の類と考えられてきた。平成2年5月発掘調査の結果予定した遺構や遺物の出土はなかったが,付近から土師器・須惠器の出土,弥生時代後期の良い資料が出土した。