新鶴村 地名の由来 -012/079page
竹ノ花(たけのはな)
稲荷神社の西側に位置し蕎麦ノ目との境界,昔竹林でもあって名付けられたのか名の由来不明。東 畑(ひがしはた)
蕎麦ノ目集落の地区。
東の方の畑だから東畑と名付けられたのか,澤田集落から入作も何人かあった。東 臺(ひがしだい)
東畑同様で蕎麦ノ目集落から見て東の方の台地だからか名の由来不明。佐ノ目(さのめ)
蕎麦ノ目集落との境界。澤田集落より西側で牛川堀の西で一段と低く湿地帯。この地はもと佐賀瀬川扇状地の川筋で,いつも氾濫していたといわれる。蕎麦ノ目集落では「沢ノ目」と言っているが同一地区のようである。
これまで記載した澤田集落の地名も平成7年圃場整備事業により地名が「澤田南」と統一された。
◎明治20年地目変換御届書による字名のうち,判読出来る15地名次のとおり。地名の由来不明。
東前川原・西前川原・西諏訪川原・上井戸尻・下井戸尻・西穴田・東穴田・柳ノ内・北八反田・南八反田・堂ノ下・上ノ代道西南・殿火田・日所・角田狐 壇(きつねだん)
澤田集落墓地の南側の一部で小高い30坪の所,古墳の一部との伝承がある。昔狐が住んでいたと云われている。捨 場(すてぱ)
大正時代の耕地整理前は,ゴミや石等の捨場だったので捨場と呼ばれていた。早稲田(わせだ)
水の便が悪く,水のかかりにくい所で稲を植えるには早生稲でないと米が取れなかったので,早稲田と名付けられた。車 屋(くるまや)
耕地整理前,川に水車小屋があったところから,車屋と呼ばれていた。その後は田中前となる。
蕎麦ノ目(そばのめ) (和田目丙)
会津風土記(寛文風土記)に「若松ノ西北行程十五里二有り,東西一町三十一間,南北四十九間,家居乱ニシテ圖何レノ形トモ雑記,村建始ノ年号並蕎麦目村卜云由来不詳」とあり新編会津風土記には「府城の西に當り行程………牛寅の方四十間を隔て一区あり,家数十三軒北蕎麦目と云」又「小名槻曽根……入田沢村の未の方山中にあり,家数二軒……」とある。