新鶴村 地名の由来 -018/079page
下横道(しもよこみち)・上横道(かみよこみち) (現 立石田28〜39の1)
「梁田掛上り」から「またたび沢堤(通称立行事堤)の水源地に向かって概ね斜めに農道が横切っていたので,下から「下横道」「上横道」と名付けられたと云う。堤 首(つつみくび) (現 立石田東長尾39の2〜54)
堤の水口の付近には,あちらこちらに清水が湧出していたこの付近を「堤首」と名付けた。
「またたび沢堤」の水源地は現在の東長尾24番地の清水。掛上(かけあが)り (現 立石田東長尾81〜92)
長尾原に行くには佐賀瀬川を渡らなければならないが,昔は橋らしき橋が無く丸木橋や板橋であったため,長雨や大雨等で川の水が少しでも増水すると橋が流されてしまうので,特に丈夫な橋をかけなかったらしい。村人たちはこの橋を渡るときに橋がしなる(上下動)ので腰で拍子を取って渡り畑地に駆け上ったので「掛上り」の地名になった。
上流200メートル位の地を「梁田掛上り」と云い橋もかけられている。三百苅(さんびゃくがり) (現 立行事794〜798)
昔,田一反歩から稲300束(1束は6把)の取高があったので「三百苅」と名付けられた。
400束は四百苅、500束は五百苅。
梁 田(やなだ) (立石田乙)
梁田集落は古くより,旧苗穂(現ふれあいの森運動公園)北の佐賀瀬川地区(現西長尾)にあったと伝承されており,江戸時代にはこの地名は古屋敷と呼んでおり現在も古老は「古屋敷」と云い,村の周辺を開拓して日常の営みとしていた。此の周辺の「入長尾・中長尾・衣埼」の一部等は昭和44年の畑地整理のときまでは梁田分で立石田乙として耕作し,梁田よりの「掛上り・六檀」の地は立石田甲の立行事分であった。
稲作文化の進展と共に,高地より便利の良い低地へと移住した年代は詳かでない。現集落は新鶴村の平坦地域では最も高い地であり佐賀瀬川の氾濫より免れる地でもある。何故此の地に「梁」と云う字を用い開田していったかは不詳である。
延徳2年(1490)3月吉日の法用寺の仏壇厨子修理名(仏壇塗)に旦那梁田住仁源性珠禅尼葦田輔行治郎衛門とある。その後文禄3年(1594)蒲生領高目録に,「穴田」とある。高192石余,寛文5年(1665)の「萬改帳大沼郡中荒井組」では本田高192石余,新田高2石余とあるが,この新田は昔,今の新屋敷の台地へ梁田より2名が開拓に出たとの伝承があり,天正16年(1588)7月27梁田孫兵衛秋重下梁田に常福院開期す(会津藩旧事雑考)とある。短い期間であっ