新鶴村 地名の由来 -019/079page

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たが会津の資料にみえる。

 明治4年(1871)には戸数20戸,人数110人,同8年には立行事村・大石ノ目村と合併して立石田村となる。明治・大正期には根岸・雀林・高田から坂下村を結ぶ道筋で人馬の往来が頻繁で繁盛したが,鉄道の開通や道路の付替えで往時の面影を失った。
 

  宮 西(みやにし)
 宮西は前川原の北にあり村社登我和神社の西に位置する所から,昔より宮西の地名であり南前川原,北阿弥陀免,西上小沢分である。

  寺 田(てらだ)
 梁田集落には江戸初期(1624)頃迄は寺があり地蔵堂や阿弥陀堂があったとの伝承があり,現在も寺田(免除地)の地名が残っている。村東五百苅の東に位置する金山との間の地で良田である。此の地の一部が藩制時代には行仙とある。

  地蔵免(じぞうめん)
 此の地は村北にあり,大石ノ目村との境で反別は少ないが地蔵尊の維持管理に当てる免除地であった。
 免除地とは,藩制時代年貢・夫役をその土地の地力に応じて藩に納めずに地蔵堂の管理に当てたことであり,納付は当時法院制度があり神社や仏閣はこの法院で維持管理をしていた。従って法院に納付していたが,明治元年神仏分離令のため現在は廃止となった。
 江戸時代の法院は新鶴村で10軒で皆,盛寺院系の磐梯町恵日寺系であった。

  阿弥陀免(あみだめん)
 「阿弥陀免」は村北にあり,大石ノ目集落との境で反別は4反位で北は下小沢,西は上小沢となり南は寺西である。昔寺に阿弥陀堂があり免除地であった。

  手後屋敷(てごやしき)
 村西にあり慶長の頃(1597)新編会津風土記に「舘跡村中にあり,東西四十間南北四十間余,民家となれり千代和泉守と云者住せしと云」とあり,南に長く畑地であったが今は住宅地となっている。
 千代和泉守の墓所が,村南西の梁田集落の墓所に五輪塔二墓がある。

千代和泉守古五輪塔
千代和泉守古五輪塔
 


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