新鶴村 地名の由来 -020/079page

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  入長尾(いりながお) (現 北長尾)
 入長尾は現西長尾の東に位置して旧村古屋敷にあった頃は,村に一番近い場所であった。何時の頃にか現在地に移住してより村からは一番遠い畑地となり入長尾と呼ばれており,現在北長尾の最西に当る。

  中長尾(なかながお) 「俗クレ切り場」 (現 北長尾)
 中長尾は入長尾の東に当り現北長尾で,旧衣崎に接する地である。この中長尾と衣崎の間に昔より原野があり「クレ切場」と云う地名であった。此処の場所は昔より昭和の初期頃までは,衣崎下の佐賀瀬川村堰より用水を揚げるときに大勢の村人足が此処より土芝(クレ)を切り取って漏水を防いだ場所である。

  堰ノ上(せきのうえ)甲 (現 北長尾)
 この地は立行事堰上の所で梁田掛上りの南に当り現在も立行事分として耕作している。

  下長尾(しもながお)甲 (現 北長尾)
 梁田中長尾の東に当り,旧横道の西で現在北長尾となっている。

  中長尾(なかながお)甲 (現 北長尾)
 中長尾は旧入長尾の東に当り横道甲の西で現北長尾となっている。

  掛上り(かけあがり)甲 (現 北長尾)
 掛上り甲は堰ノ上甲の西に当り現在は梁田分(乙)である。

  入長尾(いりながお)甲 (現 北長尾)
 入長尾甲は梁田入長尾の南に当り立行事分である。

  梁田掛上(やなだかけあが)り甲 「俗宇陀條」 (現 北長尾)
 梁田掛上り甲は,立行事掛上りの西に当り耕地整理後は梁田分となる。この地の一部に字陀條の地名が伝承されている。この地一帯には縄文より弥生の土器が数多く発見され篤志家が収集,須恵器の双耳器も発見され祭祠の場所ではなかったかとも云われている。

  大 檀(おおだん) (現 北長尾)
 旧大壇は上中下とあり,横道甲の東に当り旧立行事分である。昔より長尾四十八壇との伝承があり,会津盆地周辺の山頂から丘陵地にかけて古墳時代後期(6〜7世紀)頃の円墳が数多く点在している。古墳造営の始まりは,弥生後期(3世紀)頃と云われ稲作伝播と共に貧富の差が生じて階級社会の成立となりその族長は大和朝廷との密接な関係を保ちその庇護のもとに地方の王者となって一般民衆を支配し,数多くの人を使役してその威容を示すため古墳を築いたのが中大壇である。従って地名も大壇と呼んでいる。この壇は6〜7世紀頃の円墳で長尾原東北端にあり,径10メートル・高2メートルであったが,昭和26年畑地造成の時整地され,中より石廓が発見され,その近


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