新鶴村 地名の由来 -021/079page
辺から直刀や勾玉が発見されている。
車地蔵(くるまじぞう) (現 宮西)
阿弥陀免の西に当り,上小沢との境界にあり大石ノ目堀の東上に当る。東は宮西の段丘となる傾斜で以前は官地であったが昭和初期に払い下げて民地となっている。問道山(もんどうやま) (現 佐賀瀬川 向山)
藩制時代には梁田分の山とし,槻ノ曽根街道南佐賀瀬川沿えにあった。この頃は年貢夫役を課せられる為に佐賀瀬川村に譲ったと伝承されている。衣 崎(ころもざき) (現 北長尾)
中長尾甲・北の涯の出崎に当り佐賀瀬川扇状地上の段丘にあって十数丈の高地で非常に眺めの良い所である。
伝承によると,昔此所には大きな寺院があったと云い伝えられ,昭和26年畑地整理の際には小さな壇が付近には数多くあり長尾48壇と云われていた。衣崎よりは昭和44年開田の時は直刀4本・祭祠用の高盃等が出土して,寺院跡と見られる高台よりは,礎石と思われる大きな配列石が出土されている。
新編会津風土記巻75陸奥国大沼郡之4に「村西逆瀬川の涯の出崎となり,昔空海逆瀬川村の山上に伽藍を造立し此地の殺生を禁ぜんとて,此にて法衣を焼き流せしとぞ」とある。
佐賀瀬川を隔て5丁程の西には,横穴古墳群や権現堂がある。この丘陵地帯には稲作文化と共に仏教文化も栄えたと思われる。衣崎の寺院には高僧が居り寺僧も数多く居ったと列石から見ても窺われる。
佐賀瀬川も昔は川底が高く水量もあったことであろう。本流である阿賀野川も,発電所もなく秋になると日本海より鮭や鱒が阿賀野川・鶴沼川を経て佐賀瀬川へと遡上した。村人達はこの季節になると蛋白(たんぱく)源を求めて川魚を取り又冬に備えて保存していた。此を見ている衣崎の僧俗達は我等も僧でさいなければと想う気になったであろう,又今年も稲刈りの季節となり,夏雨の多いせいか水量も多く,大きな鮭や鱒が遡上し始めたと云う。是を知った衣崎の高僧は村人達も可愛いが寺僧達もまた仏に仕える身であればと,護摩壇を築き三日三晩の苦行を行い着用せる自分の大事な緋の衣を脱ぎ「この衣と共に川を下り再び遡らぬ様祈願した」と云い伝えられる。
昔は此の川を逆瀬川と云い,出戸田沢の東を流れ樋渡・大井の西を流れる時は出間川(イヅルマガワ)と云って,坂下村を流れて鶴沼川と合流するこの頃に大井八景が見られたと伝えられる。
大井八景は佐賀瀬川畔の風光明美の地を絵画し歌に詠んだのが大江山青龍寺(曹洞宗)にあったが,火災のため焼失した。オカメ田 (現 南百目貫(ミナミドウメキ))
村東北端にあり,東は新屋敷分,北は大石ノ目分に接する地で昔より百目貫(ドウメキ)と云う地名である大正期の耕地整理以前は,此の一部がオカメのような型の田であったので「オカメ田」と呼んでいたと伝えられる。