新鶴村 地名の由来 -044/079page
北 原(きたはら)
1番〜95番まで,畑
● 遺跡 北原遺跡 奈良・平安時代。西 窪(にしくぼ)
1番〜59番まで,山林・畑・草地
● 遺跡 西窪遺跡 縄文時代。京安林(きょうあんりん)
1番〜24番まで,山林
● 遺跡 京安林遺跡 縄文時代。
昭和51年発掘調査大久保(おおくぼ)
大久保地区は良質の粘土が有り,昔から瓦焼き場があった。
開拓入植者 2戸・他2人・一部原野
● 遺跡 大久保遺跡 縄文・奈良・平安時代。
大久保須恵器窯跡 昭和58年一部試掘・昭和59年(1984)発掘調査
◎延享元年(1744)御検地配布帳・明治6年(1873)耕地田畑配布帳・明治16年8月13日(1883)地積元仕出帳による調査地名。
・ざる田・八反畑(1番〜47番まで,畑)・西原前(1番〜70番まで,畑田)・古舘・八木沢作(1番〜34番まで,田)上菖蒲江(1番〜6番まで,田)下菖蒲江(1番〜12番まで,田)・中田沢川(1番〜37番まで,田)・中前田(1番〜122番まで、畑)・下中谷地(1番〜66番まで,田畑,沖田(1番〜36番まで,田),下田沢川(1番〜24番まで,田・畑)・五百苅(1番〜35番まで,田・畑)・上シド(1番〜26番まで,田)・上上野(1番〜85番まで,畑)
入田沢(いりたさわ) (沼田 乙)
地名の由来不明
「出戸」の山表の意に対し,「入」は山奥の意を表したのではないか。 (奥州会津新鶴村誌)
入田沢集落の地名は,旧地名「寺ノ後」が現在は「寺西」と改称されている他,地名改称はなされていない様である。
○地名左のとおり。
・宮ノ前(みやのまえ)・山ノ神(やまのかみ)・向橋本(むかいはしもと)・堰場(せきば)・田作(でんさく)(田作の山寛文風土記に「追分山」と云う)・大澤(おおさわ)・後前田(あとまえだ)・北原(きたはら)・橋本(はしもと)・月ノ澤(つきのさわ)・柁澤・寺後(てらあと)(現・寺西(てらにし))・切留場(きっとめぱ)・上野(うわの)・舘ケ曹根(たてがそね)(寛文風土記には赤羽山とある)・取上(とりあげ)・浪漆(なみうるし)・五百苅(ごひゃくがり)・清水尻(しみずじり)・梨平(なしだいら)・宮窪(みやくぼ)・三百苅(さんぴゃくがり)・歌ノ澤・蟹ノ澤(かにのさわ)・小座曹根(おざそね)・前田(まえだ)贋 澤(がんざわ)
入田沢集落蟹沢地区の一部に,贋澤と呼ばれた地名の伝承がある。
この地は入田沢集落前「歌ノ澤堤」の手前の西側の沢で,100米位入った所に一寸隠れることの出来るような場所がある。
戊辰戦争の時,会津藩と西軍が入り替わり来て食料・人馬の徴発が行われた。集落の人達はこの贋澤にある程度食料・馬な