新鶴村 地名の由来 -047/079page
て,ベコ清水を通り峠の茶屋を経て銀山へ向かっていた。
佐賀瀬川集落は,昔土佐屋敷より現在地に移住したとの伝承があるが,その年代は詳でない。
会津の資料(旧事雑考)には,(原文)伝に曰く海師(弘法大師)大沼郡逆瀬川邑に黒岩山興隆寺 ヲ 建 テ 白山権現 ヲ 崇 ス 於 テ 大日不動両像 ヲ 安 ス 于院側 二 護 ス 今黒岩 ト 云 フ
塔頭亦 タ 十二宇在 リ 旧邑大日山 ノ 下 ニ 在 リ 元和丁己(ヒノトミ)(元和三・一六一七年)今 ノ 地 ニ 移 スト 云 フ (三百八十年前)
下向山(しもむかいやま) (現 佐賀瀬川)
大正14年の耕地整理で換地となった字名現在は無い。上臺(うわだい) 下臺(しもだい) (現 佐賀瀬川)
佐賀瀬川扇頭北台地葭 舘(よしだて) (現 佐賀瀬川)
佐賀瀬川扇頭南台地
昔の柵跡。柵が設けられていたので,この名が付けられたと云われている。家ノ下(いえのした) (現 権現堂)
集落北畑地・先史時代の遺跡地。
縄文前期の土器・石器等数多く出土し,信仰に用うる土偶・石器あり。
● 遺跡 権現堂遺跡 縄文・弥生時代 昭和57年試掘上狐坂(かみきつねざか) (現 佐賀瀬川)
中江下(なかえした) (現 佐賀瀬川)
下衣崎(しもころもざき) (現 佐賀瀬川)
(伝承)弘法大師の殺生禁断祈願の地中 江(なかえ) (現 佐賀瀬川)
昭和28年中部土地改良工事で換地となった字名,現在ではない。
集落西,先史時代の遺跡地,古代の住居跡と縄文中期(5000〜。6000年)前の土器が出土。聖 宮(ひじりのみや) (現 黄葛葵(どろぶ))
集落西(寺院隆地)先史時代の遺跡地,縄文中期前の土器出土
● 遺跡 中江聖の宮遺跡・縄文・奈良・平安時代 昭和57年試掘