新鶴村 地名の由来 -054/079page
し,宅地は其の近傍を選び家屋悉く移転したり。而して3名は溜池築造の議を水下一般に謀り藩庁に請願し,郡奉行以下堰方吏員に至る実地踏査を経たる後,御許可を得て土地を起し文化6年(1809)着手し9ケ年を経,文化18年(1817)に竣工したり。 (奥州新鶴村村誌)
◎ 大谷地溜池(堤)水利費
水下部落反別(旧反別耕地整理以前)大谷地米 部落名
反 別
大谷地米
新屋敷 271 反 3 畝 11 斗 9 升 4 合 澤 田 36.0 1.5.8 蕎麦ノ目 205.6 9.0.5 立行事 230.7 10.1.5 梁 田 174.0 7.6.6 大石目 130.7 5.7.5 上小澤 274.5 12.0.8 下小澤 274.3 12.0.7 出戸田澤 229.0 10.0.8 根 岸 144.5 6.3.6 沖中田 123.4 5.4.3 阿久津 101.3 4.4.6 矢ノ目 41.7 1.8.3 水 島 79.4 3.4.9 樋 渡 154.5 6.8.0 合 計 2470.9 108.7.3 ●大谷地米・反・4 合 4 勺 上小澤地区 現反当・3合 市 野
市野集落は,天正の頃大谷地の地頭須田大炊介が大谷地の大舘へ知行8千石の山城を築城した時,此所に一ノ関を設け役所もあったと伝えられ,村名も市野と改められたとの伝承である。また地名の別当平は,家臣の馬屋や別当が居り,小舘には20人の武士が居ったと伝えられている。この頃より軽井沢の銀山開発も進められ,周辺の集落は生活の基盤も整った時代である。
集落の地名南沢・西ノ原・草刈場等である。南西の沢沿えに,新田場・北ノ沢・上鬮目沢(かみくずめざわ)・前ノ沢等で,大谷地・界(なかい)には道六神・別当平・坂口・古新田・小舘・抜ノ下等がある。また上平川沿えに甚五郎,桃ノ平・善加があり,軽井沢境には高平・大高平がある上平境には,上沼・下沼・入ノ沢があり軽井沢分となる。水田は各沢にあるが,軽井沢界に多くある。
本村(軽井沢村)より18町南にあり家数8軒(現1軒)東西53間,南北42間山間にあり。 (新編会津風土記)