新鶴村 地名の由来 -060/079page

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  国重要文化財
弘安寺銅造十一面観音・脇侍不動明王・地蔵菩薩立
像・旧観音堂厨子

 大沼郡佐布川村(現会津高田町)に江川常俊という豪農が住んでいた。多くの土地・山林を持ち何不自由ない生活であったが子宝に恵まれなかった。当時会津の霊場である雀林法用寺の十一面観音に祈願し,一人の女子をもうけた。文永10年(1273)17才の春病に罹り看病のかいも無く黄泉の客となった。
 夫婦は娘の菩提を弔う為に,この三尊を鋳造した。この三尊共に鎌倉時代の鋳造として,東北地方に於ても珍らしい像であるといわれる。
 旧観音堂厨子は,現在弁財天を祀り,弁天堂と呼ばれているこの堂は,かつて弘安寺の三尊を奉祀した厨子である。
 唐様式で,本尊が鋳造された文永11年(1274)頃造られたものと見られ,会津に於ける鎌倉期の古い建築として貴重である。

弘安寺
弘安寺
 

弘安寺奥院
弘安寺奥院
 

  米 沢(よねざわ) (米田乙)

 村の西に米沢という山沢があるための村名と言われる。

 「会津風土記・高田組郷村満改帳」に……當村ヲ米沢村ト名ケタル由緒ヲ尋ルニ不分明此村ノ西二山沢有り。是ヲ米沢ト云,故此字ヲ村之名二呼乎……
 

  屋 敷(やしき)
 米沢集落由来の屋敷の跡と云われる。

  宮 東(みやひがし)
 伊佐須美神社の東,集落一部を云う。

  澤 北(さわきた)
 集落中央が沢であったことから北が沢北と名付けられた。

  富 塚(とみづか)
 富塚屋敷有り根岸中田観音との由来あり。
遺跡 富塚屋敷遺跡 縄文・平安・奈良時期・根岸中田舘主・富塚伊賀守盛勝の屋敷跡 昭和60年試掘

  南澤中(みなみさわなか)
 中央部分を沢中とし,南にも沢有り,山中堤下方に沢南の地名有り。


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