新鶴村 地名の由来 -064/079page
舘ノ前(たてのまえ) (現 境野)
本村北部,舘跡は現在宅地で其の南に位置しているので名付けられた。境野村舘
● 奥州会津新鶴村誌抜粋
村の中央に河原田豊前の舘があった。現在の道路の東側に当る辺であったらしいが,跡は全く残っていない。会津古壘記によるとこの境野村舘というのは東西36間,南北28間で天文元年(1532)小野大膳国房が築き,永禄の頃(1558―1569)河原田豊前が住み,天正の頃(1573―1591)には佐瀬平七の居となると見えるから,舘とは云っても,あまり大きくない屋敷であったらしい。上江向(うええむかい) (現 境野)
江出川東側全体の地で,大正の耕地整理で出向と命名された。天王前(てんのうまえ) (現 境野)
大正末期〜昭和3年の一反部耕地整理前迄,小高い丘であって石の祠があり,牛頭天王様が祀つられてあったので,この名が付けられたと云われている。入 坪(いりつぼ) (現 境野)
会津高田町との境で野地であって三角形でこの所に堤を造って,県道西の水田を満たしており,「うつぼ」の形であったのでこの名が付けられた。後 田(あとだ) (現 後田)
昭和58年圃場整備後も旧地名が残されているのはこの地のみである。
御舘神祉境内4畝27歩昭和23年熊野神杜を合祠。供養壇(くようだん) (現 境野)
元熊野神社の北に壇の形のものがあり,何時の時代か定かでないが,大正末期まで4墓か5墓の供養塔があった。昔処刑場であったと云い伝えられている。今は形も崩され現在は熊野神社跡に小さい石の祠があって4歩程の土地が残されている。一里壇(いちりだん) (現 境野)
村の南,道路東側に一里壇と呼ぶ榎のある壇があったと云われ,これが新鶴村旧役場前の一里塚跡より丁度一里で,次は永井野の一里塚につながる。
江戸時代の一里塚があったので名付けられた。