新鶴村 地名の由来 -071/079page
県道会津高田・会津坂下線の西にある土地である。
水田 4反8畝15歩
〔境野分〕
出 向(でむかい) (現 境野分)
境野から流れ出る「出川」の向かいにあるのでこの名が生まれた。
水田 2反1歩,畑 5畝28歩
〔境野分〕
下竹ノ花(しもたけのはな) (現 檜ノ目新田115〜118・89〜94)
牛川堰の上で,県道会津高田・会津坂下線の東で,舘西の東に位置していた。
水田 9反26歩
牛川堰の開鑿(かいさん)
牛川堀と堰は,明暦2年(1656)河沼郡大井・牛沢・蛭河・船窪方面の灌漑用水が不足のため牛沢組郷頭佐原吉左衛門が,藩の援助と私財を投じ一方は権力を用い,他方命を落とす程の決意と苦心を以て翌2年(1657)までに急ぎ開鑿した大用水堰である。
現代のような精密な測量機械とてなく,弓張り提灯(ちょうちん)に蝋燭(ろうそく)をとぼして,土地の高低に目印を付けて測量を完成したと伝えられている。
沖中田(おきなかだ) (鶴野辺乙)
此村東西三町四〇間,西北一町五〇間,家居は箕の手の如にして乱住す。当村の建始りならびに沖中田村と名たる由来知らず,領堺隣郷は何れも御私領にて同郡也。〔高田組郷頭田中家文書・寛文五年(一六六五)書上げ〕
「奥州会津新鶴村誌」には,会津合戦記や四家合考にみえる芦名の臣鵜浦甲斐守の舘跡で,もと中田の舘と呼び,時代は芦名盛氏の時代かとも伝えられていると書かれている。
奉仕免(ほうしめん) (現 木戸東)
一部に「法印田」と云われる免租地があり,一帯を法師免と呼んだ。何時の頃からか坊主免・奉仕免と変わったと云う。耕地整理のときに「木戸東」に編入された。八 幡(はちまん) 乙919〜1174 (現 沖中田)
八幡太郎義家軍が陣屋を置いた所と云い伝えられている。八幡向(はちまんむかい) 乙1〜28ノ1 (現 沖中田)
八幡太郎義家軍と対峙した安部貞任軍が布陣した所と伝えられる。下油田(しもあぷらでん) 乙1947ノ1〜1977ノ1 (現 沖中田)
安部貞任軍撤退に際し八幡太郎義家軍の追撃を防ぐため,油を撒いて放火した跡と云われている。