新鶴村 地名の由来 -072/079page
油 田(あびらでん)
不詳,耕地整理の際下油田に編入された。籠 田(かごた) 乙632ノ1〜751 (現 沖中田)
春日神社の南西一帯の水田地帯,昔は水利が悪く,笊より水持ちが悪いとの意で付けられた地名と伝えられている。
広面(ヒロモチ)などの旧称も含まれる。宮 北(みやきた) 乙752ノ1〜859 (現 沖中田)
鎮守春日大社の北西佐賀瀬川添えの地帯。旧称山ノ下・杉ノ先(スギノサキ)・与一新田・沢ノ目などの地域で耕地整理の際に編入された。西川原(にしがわら) 乙861〜905 (現 沖中田)
集落の北西約1キロメートルの佐賀瀬川北側川添えの地帯,地名の如く川原状態の地を開田したと云う。木戸西(きどにし) 乙485〜632 (現 沖中田 木戸西)
木戸東(きどひがし) 乙355〜477 (現 沖中田 木戸東)
牛川新堀より鉄道線路までの間の地名。風間何某(鵜浦甲斐守・奥州会津新鶴村誌)の館の通路に設けられた木戸(門)の夫々西側・東側の意と伝えられる。下川原と云う旧称の地域も含まれる。狐 壇(きつねだん) 乙2013〜2205 (現 狐壇)
狸 壇(たぬきだん) 乙2206〜2278 (現 狸壇)
昔,八反街道を通る人々がこの地辺で,狐狸に化かされたと云う話から付けられた地名と云う。狐狸の巣穴が多くあったので,誰云うとなくついた地名とも云う。中川原(なかがわら) 乙30〜203ノ1 (現 沖中田)
赤沢川の東,出川(イデガワ)までの地帯で,赤沢川の氾濫の度に川原状になるのでついた地名と云う。出 向(でむかい) (現 沖中田)
出川と鶴沼川までの間の旧地名,出川の向こうの意耕地整理で中川原に編入。江 向(えむかい) 乙209〜305ノ1 (現 沖中田)
集落東に「色海(シキミ)」と云う中江(沼)がありその向かうの意と伝えられる。
悪 津(あくつ) (現 阿久津・鶴野辺丙)
元この地は低湿地で悪津と云われていたが,悪は好ましくないので寛文年間(1662〜1672)に今の文字に改められた。
明治後期の面積は,東西2町20間・南北2町戸数は20軒であった。神社―稲荷神社・寺院―阿弥陀寺