新鶴村の文化財 -011/027page

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新鶴村の遺跡出土資料
新鶴村の遺跡出土資料

新鶴村の遺跡出土資料

新鶴村には遺跡が数多く存在し、特に西部山地裾部から扇状地にかけて多く分布している。一般的に長尾原・上野原から、西部山地裾部には主に縄文・弥生時代の遺跡が、扇状地には主に古墳・奈良・平安時代の遺跡が分布する。古墳は会津盆地を見下す西部山地陵部・裾部や扇状地の緑部に分布する。

旧石器時代の遺跡は、存在の可能性はあるもののまだ発見されていない。

縄文時代に入っても、前期までの遺跡は極めて少なく、京安林・下大窪・田子畑に少数の土器片を見るに過ぎない。中期・後期になるとその数は非常に多くなり、中江聖の宮・上野・京安林等広大な遺跡がある。京安林は発掘調査の結果、縄文時代中期の代表的集落跡であることが分かっている。晩期に入ると権現堂・木留場遺跡等その数は最多となり、多くの土器や石鏃・土偶等の出土を見る。

弥生時代には、権現堂・東台遺跡があり、権現堂出土の壷は、東北南部における最古の弥生土器の部類に属する。古墳時代では、前期の大型古墳は見あたらないが、後期に属する多数の古墳群、終末期の古墳群があり、石廓・人骨・直刀・蕨手刀等が出土している。

古墳・奈良・平安時代の土師器・須恵器も広く分布するが、注目すべきものとして会津五箇所の古代古窯跡の一つ大久保古窯跡があり、八世紀後半、既に中世陶器に移行する大型須恵器の製造がなされていたことがうかがえる。

中世の経塚も数多く知られ、佐賀瀬川の呉壷山経塚等五ケ所から経筒が、また蕎麦ノ目の来迎原経塚より経石の出土を見ている。


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