新鶴村の文化財 -012/027page

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吹上の円墳
吹上の円墳

横穴古墳 1号墳(右)と2号墳(左)

横穴古墳 1号墳(右)と2号墳(左)
横穴古墳 1号墳(右)と2号墳(左)

佐賀瀬川横穴古墳群見取図

吹上の円墳

所在地 新鶴村大字佐賀瀬川字峯山5003
所有者 新鶴村

会津盆地周囲の山頂から丘陵にかけて、数多くの古墳が点在している。古墳造営の始りは弥生時代後半頃(三世紀)よりと言われ、稲作の伝播と共に貧富の差が生じて階級社会の成立となり、その族長は大和朝廷との密接な関係を保ち、その庇護のもとに地方の王者となって、一般民衆を支配し、数多くの人々を使役して、その威容を示すために墳墓を築いた。

会津に於ては、会津坂下町の杵ケ森古墳(弥生時代後期)を始め、大和時代前期と言われる堂ケ作古墳や中期頃の大塚山古墳(会津若松市)等がある。

その後、古墳時代前期(四〜五世紀)に入って大型古墳の出現となり、鎮守ケ森や亀ケ森古墳(会津坂下町)のような東北地方第二の前方後円墳が築かれるようになった。

古墳時代後期(六〜七世紀頃)になると、再び小型化して大きな古墳は見られないようになった。

新鶴村では、佐賀瀬川から長尾原、根岸、米沢にかけての一帯に、佐賀瀬川横穴古墳群、根岸四八壇古墳群、米沢五つ壇古墳群等横穴古墳群や多くの円墳群が知られていた。しかし、開墾によって、今では円墳のほとんどが失われている。

吹上公園にある円墳は、周溝は失われているが、崩れを防ぐため周囲を石で囲ってあり、よく保存されている。

直径9.2メートル、高さ1.85メートルの大きさで、古墳時代後期のものである。


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