わたしたちの三島町 - 077/079page
江戸時代(えどじだい)になると三島町は、徳川幕府(とくがわばくふ)の直接(ちょくせつ)の領地(りょうち)になります。この地方を「御蔵入(おくらい)り」というのは、このことを言います。ときには、会津藩(あいづはん)が幕府のかわりに支配したこともあります。
みなさんの地区は江戸時代は「村」と呼ばれました。
桧原の古い呼び方は「奥州(おうしゅう)・南山御蔵人(みなみやまおくらい)り領(りょう)・金山卿(ごう)・滝谷組・桧原村」です。このころの町の中心は、滝谷と大谷にありました。
住民は農家で「百姓(ひゃくしょう)」と呼(よ)ばれました。山にかこまれて、田の少ないこの地方では、米は少ししかとれず、ヒエ・アワ・ソバや山菜(さい)などを食べていました。養蚕・おり物(わた・あさ・からむし)・うるし(ろうそく)・たばこなどが作られていました。山の木は、すぎ・けやき・くり・とちなどが、木材・炭・まきや食べ物(実)として利用されました。
きりの木は特産でした。