私たちの郷土 昭和村 - 003/099page
とや高等小学校をつくること。そして,2つの村を1つにして強(つよ)いカを持(も)つ村にしたいという考えなどからでした。反対(はんたい)の意見(いけん)もあって,なかなかまとまりませんでしたが,結局(けっきょく)は,県の強い指導(しどう)があって合併(がっぺい)することになりました。
しかし,こんどは,村の名前をどうするかでもめました。「大(おお)」 と「野(の)」をとって「大野村(おおのむら)」にしようという考えに,まとまりかけましたが,野尻村の方から「野」が下についてはおもしろくないなどと意見がでてなかなか決まらなく,これも県の指導で当時(とうじ)の新しい元号(げんごう)「昭和」にちなんだ「昭和村」と名づけられました。
昭和2年(1927年),正式(せいしき)に昭和村が誕生(たんじょう)しました。村民の長年(ながねん)の願(ねが)いであった高等科(こうとうか)も,下中津川小学校の中に設(もう)けられ,川口村まで行かなくても高等小学校をでることができるようになりました。
この頃の村民の暮(く)らしは,いぜんとして楽(らく)にはならず,特に昭和5年の不景気(ふけいき)による,農作物の値段(ねだん)の暴落(ぼうらく)によって,各(かく)農家では徹底的(てっていてき)な打撃(だげき)をうけ,ひどい生活を強(し)いられました。
敗戦(はいせん)と新制(しんせい)中学校の設置(せっち)
昭和20年(1945年)8月15日,まる8年にわたった戦争(せんそう)が終わりました。村には戦争による爆撃(ばくげき)や被害(ひがい)もなく,豊(ゆた)かな自然(しぜん)も昔のまま残りましたが,村全体(ぜんたい)で174名の戦死者(せんししゃ)があり,戦争が人びとの心に残した傷(きず)は深く長く消えることがなかったのです。平和(へいわ)はよみがえりましたが,人びとの生活の苦(くる)しさ,世の中の混乱(こんらん)は数年(すうねん)にわたって続(つづ)き