私たちの郷土 昭和村 - 004/099page

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ました。
 昭和22年(1947年),国の教育(きょういく)のしくみ(六三制)が改(あらた)められ,中学校をどの市町村にもつくらなければならないようになりました。苦(くる)しい財源不足(ざいげんふそく)の中で,どこでも大変(たいへん)な問題となりました。昭和村では,村民の理解(りかい)と努力(どりょく)で,昭和24年(1949年)に,昭和村立昭和中学校を下中津川に新築落成(しんちくらくせい)させました。

 昭和村の場合(ばあい)は,はじめから統合(とうごう)中学校ともいえる形でつくられたのです。

当時の中学校校舎
▲当時の中学校校舎

 乗合(のりあい)バスが開通(かいつう)

 昭和26年(1951年)6月30日,宮下・小中津川(こなかつがわ)間に乗合バスが運行(うんこう)されるようになりました。それまで昭和村から他(た)町村へ行く時(とき)には,すべて歩きに頼(たよ)っていました。田島(たじま)へは舟ケ鼻峠(ふねがはなとうげ),高田(たかだ)へは博士(はかせ)峠,そして,宮下(みやした)まで(ここまでは,昭和16年に鉄道(てつどう)が開通していた)は美女(びじょ)峠と,すべて険(けわ)しい峠を越(こ)さなければならなく,しかも,冬は積雪(せきせつ)で通行できなくなってしまいます。ただ一つ,平坦部(へいたんぶ)(平らなところ)を通る川ロヘの道が,大切(たいせつ)な生活道路となっていたのです。

 その川ロを経由(けいゆ)したバス路線の開通は,村民にとって長い間の願(ねが)いがかなえられ,大きな喜(よろこ)びでした。そうして,駅のある宮下までのバスが運行されることにより,会津若松市(あいづわかまつし)まで日帰りできるほど便利(べんり)になりました。

 一方(いっぽう),昭和27年には田島町まで,7月の「祇園祭(ぎおんまつり)」のときだけバス


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